TOO MUCH
ことばの空虚から、行為の確実性を信じて
mojo west No.9 1971/8/22 MARUYAMA8-22 円山公園・野外音楽堂 PM 2:00⇔8:00
(この時の機関紙の序文が次のものだ。悶々とする青年が 西部講堂から円山野音を開放した。)
MOJOWESTとは、定期的にロック及びロック的事象を 中心に自由で創造的な空間を 創り続けていく事によって、これらの真に解放された世界を時間的にも空間的にも広げ、日常化しようとする運動です。
我々も、8回のイベントを続ける中に、この運動もいろいろな意味で転換期に入ったのでは ないだろうか、というスタッフの意見で7月のイベントを休止していましたが、日本のロックを取り巻く状況の変化、資金の問題、社会的な意味等を充分に討論し、それでもなお続けるべきだという結論に到りました。多くの賛成してくれる人、反対する人の意見を得、これも、この運動に対する意識の高揚と受けとめ、我々若者は、ことばの空虚から、行為の確実性を信じて、この運動を実践して行きます。
今後も若者として、社会に対し確固たる姿勢を示し、その武器となり、媒体ともなるロックそのものに対しても、充分リアリティのある、積極的な運動を展開します。
MOJO WEST 8/22 Stuff
「Now」 すわって じっとしていないで
いますぐ立ちあがってフィーリングを解放しろ!
TOO MUCHのメンバーと対談したときの内容
ジュニー・ラッシュ (VO.22) / 小川 勉 (EG.22)
青木 正行 (EB.19) / 小林 秀弥 (DS.20)
何如ロック・ミエージシャンとして今あるのか
ビートルズ、ストーンズを聴いて、すごく感じる所があった、我々の音楽との出会いは、そこから出発したのだ。
しかし、我々は、ミュージシャンが、ただ音楽が好きで、それをやっているという事ではダメだと思っている。ミュージシャンは、各々、自分自身の考え方なり、生き方なりを強く持って、それを音楽という媒体を通して、コミュニケートするのでなければならないと思っている。
では、あなた方は音楽で何を言いたいのか
我々は、みんな “人間”である、という事だ、そして、仲良くやろうじゃないか、一緒に音楽を楽しもうとゃないか、という様な事だ。しかし、それは我々の音楽を聴く側の人達が感じるところのものであって、それが、どのように受取られようとも、それが我々の言いたいところのものであると思って下れていい。
ロック・フェスの有効性についてどう思うか。
ロック・フェスでは、プレイする側の人間と、聴く例の人間が、レコードや劇場にくらべて、ある特殊な情況におかれていると思う。そこでは、音楽性の価値基準が、まるで違って、群衆とプレイヤーの間に生まれる緊張感や、共感が、むしろプレイの中で大きな位置を専めるようになる。そした、みんなで共有出来る“ハッピーな空間”は、非常に価値あるものだと思う。
今の、ロック・フェスのあり方に満足出来るか
プロモートする側の人間が、“ロック”そのものを理解していないのが現状だ。単に、ロック・ミュージシャンを呼んで、金儲けをすれば、それでいいんだという商売人の論理で、全てやられたんじゃかなわない。
基本的には、興業というもの自体の形は変わらないと思うが、しかし、どんな商業主義的なロック・フェスでも、ミュージシャンの表現する“場”と、聴衆の自由な“場“というものを、もっと大切にして欲しいと思う。
あなた方の音楽の特徴は。
それは、聴いてもらえば、そこで感じたところのものである訳だが、特に、我々はヘヴィな中で、メロディックなものを生かす事に心がけている。
ジュニーの、ステージにおけるアクションの大きい事について。
私の、あの派手な動作は、わぎと作っているものではない。歌と共に、自然に出て来るものなのだ、今だかつて、私は自分の動作が、どうであったか覚えていた事がない。
その最中は、何も考えていない。私のロックは、体で表現する事をも含めてロックなのだ。特に、フェスティバルにおける伝達の手段として、アクションやファッションという視覚的な表現は大事である。
ドラッグとロックについて
ロックは、ドラッグと直接にはかかわりがないと信じている。だから、ドラッグをやったからといって音楽が良くなるものじゃない。人間の体験として、精神の解放剤として、人によっては非常に有益なものかも知れないが、創造と結びつくと考えるのは早計だ。
特に、ドラッグやFIXINGにコントロールされる様になったら御仕舞だ。
ミュージシャンの生活の態度について
普通の、平凡な生活がベストだ。
作られたロック・ミュージシャンのイメージに合わせて生きる事は馬鹿な事だ。