fuji odyssey 1

 ’03年7月19日、20日の両日、滋賀県野洲郡の希望ヶ丘文化公園にはDreams Come Trueを目当てに両日それぞれ3万人が、同8月23日、24日、兵庫県神戸市の人工島・ポートアイランドにはサザンオールスターズを目当てに、両日合計で14万人の人が集まったという。単一バンド、もしくは単一ユニット名義のイベントではなく、複数のアーティストが名を連ねるイベントも花盛りだ。同31日には同じく神戸でRUSH BALL 2003が開催されている。
 レゲエ・サンスプラッシュなど、レゲエ・ブームが全盛の頃にその端を発した日本の屋外音楽フェスは、’97年、富士ロック・フェスティバルで一つのエポックを迎える。そして…。
 ’69年というから、今から34年前の8月15日~17日の3日間、アメリカ・ニューヨーク郊外の農場で開催された野外ライブが、かの「ウッドストック」である。’60年代後半のアメリカを語るとき、何をおいても「ベトナム戦争」を抜きに語ることは出来ない。’80年代になっても、’90年代になっても、ハリウッド映画には、当時をモチーフにしたものが多かった。それだけアメリカという国に、かの戦争の傷跡は深く残った。泥沼化する戦況に誰もが憂い、その中にはロックミュージシャンもいた。グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・フー、ザ・バンド、ジョー・コッカー、ジョニー・ウィンター、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、スライ&ザ・ファミリーストーン、サンタナ…。アメリカはもちろん、イギリスからも数々のミュージシャンがノーギャラでステージに上がり、伝説的なプレイを見せた。その中には、ビートルズが師事したというラヴィ・シャンカールの名もあった。

 錚々たるミュージシャンが集まってきたのは、「愛と平和」、それを祈るというコンセプトの下であり、このイベント自体、世界平和への祈りを音楽にのせて発信する、という大義名分があった。「愛と平和」。つまり「LOVE & PEACE」。今に伝わるこのフレーズの根っこには、反戦の旗印がある。そして彼らを観に、いや、彼らと思いを共にし、同じ空気で呼吸するためにオーディエンスが集まった。その数は30万人とも40万人とも言われている。ミュージシャンとオーディエンスが一体化して、共に歌い、共に踊り、共に祈った。多民族国家にあって、この3日間は人種差別もなく、豪雨の中オーディエンス同士が助け合い、ろくに食事もせずに、泥だらけで過ごし、そして楽しんだという。戦争があったからこそ、この一体感が生まれたのだというと、殺伐とし過ぎてしまうだろうか。だが間違いなく、「反戦」というモチーフがあったことは間違いがない。

 その後、このイベントを受けて野外イベントがいくつか企画・実現された。同年12月、アメリカ東部で開催されたウッドストックに、「ならば西は…」と対抗するように、ウェストコースト、サンフランシスコ郊外のオルタモントスピードウェイでも野外イベントが行われている。
 さらに翌年には、「ウッドストック再び」とばかりに、イギリス・ワイト島でもロック・フェスティバルの2回目が開催されている。ここには4日間で60万人のオーディエンスがつめかけたという。

 いずれも「愛と平和」を標榜した元祖のウッドストックに比すれば、ラブ&ピース以外の要素が強かった。オルタモントでは、ローリング・ストーンズのプレイ中に、観客が会場の警備を担当したヘルス・エンジェルスに刺殺されるという悲劇まで生んでいる。ワイト島でも入場料に関しての悶着、入場制限など、生臭いいざこざがおこったという。
 イベントの純度を保つにはあまりにもその規模が大きすぎたということだろうか。後に残ったのはロックというビジネスへの注目であったとも言われる。ロックフェスティバルは人を呼ぶ、金になる、という思考だ。

 時は遡ってウッドストックの前年、’68年の後半、木村英輝氏にとある人物がアプローチをしてきたという。この時点では「後に」開催されることになるオルタモントにつながるであろうギャンドルフという組織がそれだ。時に木村氏26歳、京都美大を卒業し、そのまま同大学の講師の任に就いていた頃である。聞けば、マイケル・グリーンという反戦弁護士らを伴ったその組織は、大阪万博の開催年に合わせて、富士山の裾野で大規模な、世界で一番大きなロックコンサートをやりたいのだという。

 助手待遇の講師であった若者を「プロフェッサー(教授)」と言ってアプローチしてきたのだという。その時点で既に木村氏を、「ウッドストック」のコンセプトを理解する人物として捉えていたのである。それは木村氏が既に、ロックフェスティバルという概念もまだなく、美空ひばりのコンサートが一番大きなイベントでったような時代に、「MOJO WEST」の前身とも言える「TOO MUCH」という、ご本人曰く「ロックフェスとも集会ともつかん」イベントを開催していたからだ。その開場は京都会館だった。彼らが日本の市場を調査しているうちに「TOO MUCH」につきあったらしい。このイベントが優れていた点、もしくは既存のイベントと違っていた点、むしろ前例がないオリジナリティと呼ぶべきかもしれないが、その相違点は、木村氏が美大にいたという事実が大きい。折しも学生運動が激しさを増すという時、美大にあった空気は、「美大生が右も左もないやろう。そういうのんとは違うことをやろう」、というものだったというのだ。政治運動でも、芸術運動でも、経済運動でも、宗教運動でもない、全てを乗り越えて、さらに全てを包括するムーブメントがオレ達の活動だ、と。

 その頃に来たのが、先述のギャンドルフからのオファーである。もちろんこの「TOO MUCH」の活動を聞きつけてのオファーであった。「ウッドストック」や「オルタモント」の考え方を知っている人物がいる。それが木村氏への評であった。いきなり提示されたギャランティが1ヶ月に100万円。今の価値で言えば2000万近いかもしれない。

 前号でも書いたように、何しろビートルズとローリング・ストーンズのファンクラブが全く同じ面子で組織され、アルバム「スティッキー・フィンガーズ」が2万枚売れてベストセラーと呼ばれたような時代である。この時点の日本で、ミュージックフェスティバルのコンセプトも何も、解る人間は皆無だった。フェスティバル(祭)というキーワードで考えても、その「イベント」に関わっている先輩を探しても「テキ屋しかおらへんのやからね(笑)」という有様だった。ただ、当時の若者が、自分たちのライフスタイルにあった新しい祭りを熱望していたのは確かだった。「TOO MUCH」に関わる若者も、例外ではない。例外どころか、急先鋒だったと言っても良いだろう。「大阪万博がジェネラル・ピープルのエキスポやったら、こっちはユース・ピープルのエキスポって形でやろうとしたんやね。エスタブリッシュとサブカルチャーと言い替えてもいい」。それが反戦弁護という反社会的な弁護をすることで巨万の富を得たマイケル・グリーンの企画だった。
 彼らは彼らで他にも、日本の大手代理店に掛け合い、評論家との接触・折衝を重ねたようだが、「考え方が違う」「解っていない」というグチばかりだったらしい。無理もない。前例がないことに日本人は極端な難色を示す民族だ。

 結局木村氏はその組織に会い、その概要を知ることとなる。「やはり日本でミュージック・フェスというものを理解しているのは君だけだ」。マイケル・グリーンは言ったという。そして「ぜひ君に、日本現地のジェネラル・プロデューサーを頼みたい」と。木村氏のそれまでの活動が、いかにラディカルで、ある意味日本人離れしていたかが解る。ラディカルといってもメチャクチャなという意味ではない。前例のない、先進的であった、ということだ。すぐそこに、後に世界的に見ても伝説となる「ウッドストック」や「オルタモント」の企画を控えた時期に、いわば並行して日本で巨大なロックフェスが行われる可能性がこの時生まれたのだ。
 そのロックフェスティバルの名を、
「富士オデッセイ」と言う。
to be continued