生きる儘@京大西部講堂

タクシーの乗務員氏が観たという
フランク・ザッパと「Z」の一文字

 「京大の、西部講堂までお願いします」。タクシーの乗務員氏に伝える。こういうのを巡り合わせというのか、何かのつながりというのか。乗務員氏は問わず語りに言うのだった。「懐かしいですねぇ。西部講堂。私が若い頃、フランク・ザッパが来たんですよ。コンサートの何日か前にはね、『Z』という文字を山で照らしに、学生達が大文字山に上ってね。私もコンサートは見に行きました。会場はマリファナ臭かったなぁ(笑)。当時はグラスと呼んでましたけどね。隣に居合わせたヤツにね、ザッパって漢字では『雑葉』って書くんだ、なぁんて教えてね。喜んでましたよ」。学生運動が盛んだった当時、乗務員氏も「身近に連合赤軍のメンバーがいたら、自分も参画していたかもしれない」ということだった。「私たちは団塊の世代ですから。でもね、マルクスだレーニンだと言っていた連中も、今では資本主義社会の重鎮になっているんです。当時は社会主義思想に同調しない人間は排斥しようとする、つまり自分と違う考えを持つ者を糾弾してたってのにねぇ。今のいじめと図式は変わらないですよ。日本人てのは、結局いつの時代も変わらないんじゃないですかねぇ。あまりあの頃のことは、喜んでは話せませんねぇ」。そう言って苦笑した。
 団塊の世代。その語源は字のごとく、塊になって同じ方向を見、同じ行動をするというものだとか。その世代に生きるほとんどの人間が、右へ倣えでラッシュしていく。「それは何も、今だって変わらないじゃないか」。そうとも言える。だがこうも言える。

「いつの時代も、塊では動かない人間も、同じように存在する」。

’60年~’70年代を音楽と共に生きた
京都には、とんでもない大物がいる

 同コーナーの後見役をお願いしている木村英輝氏もまた、一人の「塊では動かない人」であったのではないか。「ウッドストック」「オルタモント」「ワイト島」…。数々のロックフェスティバルが世界を席巻した当時、京都にあって、いや日本において、「日本人として、唯一ロックフェスティバルを正しく認識している」と世界が認めた男。世界的なロックフェスの出現を待たずに、「TOO MUCH」という、ご本人曰く「ロックフェスとも集会ともつかない」イベントを京都会館で行っていた男。「塊では動かない~」という指針は、ご本人の言葉からも明らかだ。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業し、同大学のヴィジュアルデザイン講師として4年間を過ごした。「美大生が右(派)も左(派)もないやろう。そういうのんとは違うことをやろう。政治運動でも、芸術運動でも、経済運動でも、宗教運動でもない、全てを乗り越えて、全てを包括するムーヴメントがオレ達の活動だ」。世の中が、とりわけ学生達が塊となって左に走ったときに、そう言い放った。そして舞台をこの京大西部講堂に移し、氏は「MOJO WEST」というロック・ムーヴメントを立ち上げた。それはいち美大講師から、イベントオーガナイザーへの転機であったという。当コーナーで過去にご紹介した「富士オデッセイ」は未遂に終わったが、冒頭のフランク・ザッパを京都に呼んだのも木村氏だ。その木村氏が待つ京大西部講堂へ…。件の乗務員氏は、とんだところでとんだ客を乗せたものである。他にも、ジェフ・ベックやニューヨークドールズを円山野外音楽堂に迎えたり、国内でもあれこれとイベントをプロデュースする立場となった。氏の思想は、京都というサイズで収まるものではなかったと言える。この街には、大物がいたのである。

始まりの地、そして今日は中継地点
京大西部講堂が’06年に果たした役目

 それを目の当たりにしたのも、やはり京大西部講堂だった。GWの初め、京大西部講堂は「過去にこれほど美しい化粧を経験したことがあるだろうか」と思えるほどの装いをまとった。とかくアンダーグラウンドなイメージで語られる(実際そうだったとも言えるが)この瓦葺きの建物の、入り口には立派な提灯が立てられ、背の高いコンパネで仕切られたアトラクション用のごとき導線を抜け、講堂内にはずいぶん大振りで立派な生け花と、なんと茶室までが設けられ、創業寛政六年、当代で十五代を数える蕎麦屋「本家 尾張屋」の出張店舗までが現れた。ステージには巨大なスクリーン。その後ろにはライヴ用のセットが見える。そのスクリーンと、講堂内の壁面に映された絵画の数々…。「サイのファミリー」「スマイリング エレファントとハピーネス フロッグ」「シンギング パンサー」「フライング タートル」「ダンシング パンプキン」…、様々に題されたその絵画の生みの親が木村氏である。そのどれもが壁画であり、京都を中心に錚々たる建築物の壁を飾ってきた。還暦を迎え、35年ぶりに画を描き始めた氏であるが、わずか3年あまりで絵画集を上梓するに至る。「生きる儘~自然の成りゆき~」と題された画集の出版記念の地は、やはり京大西部講堂に落ち着いたのだ。
 入り口で渡された竹籠弁当は、京都屈指の出張茶懐石「三友居」のもの。同店の山本寛氏は大の「村八分」ファンというロックン・ロール・マンだそうである。さらに講堂内の茶室を預かったのは上七軒の老舗和菓子店「老松」の五代目・太田達氏、供されたお干菓子は木村氏のご令嬢の嫁ぎ先でもある「亀屋伊織」の山本和市氏が用意されたもの、「本家 尾張屋」の前には十五代目稲岡傳左衞門氏が立ち、ブライダル業界の雄「TAKAMI」の社長・高見重光氏や、先頃、文字通り新たな船出を果たした「一澤信三郎帆布」の裏方を支えた徳力みちたか氏の顔も見える。誰もが当然のように協力を申し出たのだろう。他にも名前を挙げれば誠にキリがない、豪華な顔ぶれとかどうだとか、有り体な言葉では言い表せないほど京都を拠点に活躍する錚々たる面子が揃った。

壇上に立つ泉州男の愛ある毒舌に
薄暮の頃、贅沢な笑い声が沸く

 晩春の薄暮の頃、開場の時間になる。立錐の余地もなくなった講堂内を見渡し、ご本人の挨拶は「事前の計算が苦手でね、思ったより来てくれてはるみたいで席が足りひんので、若い人は立って下さい(笑)」であった。クレームなど出ようはずもない。「キーヤン(木村氏)らしいなぁ」と笑う声がそこここに聞こえるのみである。
 ステージに向かって最前列の席に座す御仁が乾杯の音頭を承った。青蓮院門跡、第四十九世門主・東伏見慈晃氏である。お父上は久邇宮邦彦王の第3王子にして香淳皇太后陛下実弟、つまり現天皇の従兄弟にあたるというお血筋である。縁は「青蓮院門跡・華頂殿」の襖絵を木村氏が手がけたことという。さらに、現役の学生達が数十名、「ここは何だ?今日は何の場だ?」と怪訝な顔で入ってくる。聞けば立命館大学の客員教授を務めている筑紫哲也氏の引率でやってきた学生だという。筑紫氏も壇上で、「(木村氏とはいろいろな場面で親交があるが)麻雀仲間です」と一言、場内を沸かせる。木村氏と言えば、「スローライフ」という著書を上梓したばかりの筑紫氏に、「スローライフとか言うてるヤツに限って忙しそうにしとる」と言って壇上に招いている。続けて曰く、「他にもいろんな人が来てくれてます。カッコつけて遅れて来るのかもしれんけど(笑)、内田裕也さんも来てくれると思います」。画集の見返しには、木村氏が是非にとコメントを依頼し、2ページにわたって内田氏直筆の祝辞(メッセージ)が掲載されている。35年前の当時、木村氏が「フラワーチルドレンを意識してか、ヨレヨレのGジャンを着用していた」こと、「個性を出すためか、タバコは中指と薬指に挟んで吸っていた」こと、「フランク・ザッパを京都に呼んだ」こと、「京大西部講堂でのコンサートはすごかった」こと、「ザッパもすごかったが、その男(木村氏)もすごかった」こと、「コンサート数日前に京都の学生達100人が大文字に懐中電灯で集結し、灯した『Z』の文字に知的エクスタシーを感じた」こと、そして木村氏は能書きが多く「『マルクスレーニン』から『新左翼』の話、『資本論』から『日本変革論』の話、『ショーペンハウエル』から『ローリング・ストーンズ』の話、そして『最も大事なのはエコノミックや!政治もアートも全てケイザイが動かしているんや!』」と語ったこと…。

識者の挨拶と、大女優のアシスト
御大のシャウトを迎えて大団円

 木村氏の予想どおり、内田裕也氏は会が始まってずいぶんと時間が経ってから現れた。樹木希林さんを伴って。ご夫妻そろって、出入り口にほど近いテーブル席に無造作に腰掛ける。VIP待遇など全く求める風でもない。あまつさえ、行われた抽選会においてはクジ箱を持ち、アシスタントを努めたのは樹木希林さんであった。「こんなに段取り悪いお手伝いは初めてだわ」と言って場内がまた沸く。飄々とした立ち居振る舞いは誰もが期待したものであり、言いたいことを言いつつも、その期待にキッチリ応えるエンターテインメント肌はさすが。さしもの木村氏も照れ笑いと苦笑いを繰り返すしかない。ご夫婦揃って木村氏とは35年来の親交があるという。内田氏に至っては、もはや戦友と呼んでもよさそうである。青蓮院門跡・華頂殿の襖絵のお披露目にもご夫婦揃っての出席であったらしく、それからしばらく経ったある日、樹木希林さんご本人が「板戸が四枚あるけど、描きますか?」と打診に及ぶ。そして「蘇る蓮」と題された、枯れた蓮の画が板戸を飾り、同書に樹木希林さんはこう寄せた。
 「木村英輝の仕事ぶりが好きだ。愉快である。見ていて笑える。〈中略〉お茶の時間は自分のことを誉める。絵を描く時間は誰でも一緒なんや。何年かかったなんて言うのは才能が無いんや、考えがまとまらんから、あーでもない、こーでもない言うて、時間ばっかり経つのや。〈中略〉家を建て直した時四枚の板戸を作った。絵描きが見つからなくて四年。枯れ蓮が描かれてすごく締まった。板戸が腐って朽ちても絵の具は残るらしい。なんか木村英輝のようだ」…。
 「画伯なんて呼ばれたない」と豪語し、「世の中に天才なんてそんなにおるもんやない。ほとんどは偽物や」と言い放つ木村氏にとって、「絵描き」という呼び名は実に優しさに満ちているように思えるし、雑談の中身は泉大津生まれの筋の通ったプライドを、微笑ましく表現しているようでもある。
 当然、締めくくりはライヴ(コンサートと呼んだ方がいいだろうか)であった。この日のために駆けつけた「ガロ」の大野真澄氏が、「レイニーウッド」を伴って上久保純氏が、そして元「スパイダース」の井上尭之氏が順にステージを預かる。そして最後は、ほんの少しの予定調和、内田裕也氏がオールスターキャストをバックに従えて一曲飛び入り。「ジョニーBグッド」でフィナーレを迎えた。

列席者を自慢しても詮無いこと
ここは始まりの地、京大西部講堂

 何もVIPが集った会をご覧じたいのではないし、主催者である木村英輝氏は断じてそれを望むような方ではない。若い世代からすれば、この夜壇上に立った人々はお馴染みではなかったかもしれないが、忘れてはいけない。彼らは戦うことを知っている人達である。「ギターを持てば不良」「共闘せざる者は人に非ず」…。さまざまな、そして時に理不尽なセオリーに抗い、自らのポリシーのみを信じ、軌跡と道標を具現した人たちだ。それも巨大な敵と戦い、そして少なくとも、心折れず、負けずにきた人達である。「団塊の世代」という言葉が、「まとまって動く」という意味を持つならば、その真逆を生きた人たちだ。そして何よりも、京都のミュージックシーンの御来光を見た面々である。
 木村氏は同会の案内状に、各氏への謝辞とともにこう記している。
 「西部講堂は、その薄汚い殻から抜け出さない限り、世代を越えたクリエイティブなメッセージを生みだしがたいと考えていました。その閉ざされたイメージを、せめて私の出版記念の集いのときだけでも、明るく開いてみたいのです。ちょっとしたお洒落をしてご出席いただければご機嫌です」
 京都ミュージックシーンの起点となった京大西部講堂。その京大西部講堂を、その後の京都のミュージックシーンと言い換えてみたとして、殻は薄汚いままなのか、それとも洗練されすぎてきているのか、それは解らない。だが当コーナーは、引き続き彼らが築き、残してくれた文化が、どのように成熟し、変遷しているのかを、これからもできるだけつぶさに見ていきたい。