VOX HALL (BIG BANG) 1

伝説のジャズ喫茶。
その名の上に。

 「SINCE 1939」。’65年当時、京都の高校生4人が「サリーとプレイボーイズ」というバンドをスタートした。そのバンドは、後にファニーズと改名し、ひとりの少年をスカウトする。’66年に新メンバーを迎え、5人となったそのバンド、引き上げられたプロダクションはかの「渡辺プロ」。後のそのバンドのプロデュースを務めたのが作曲家・すぎやまこういち氏である。今で言うメジャーデビューは’67年、デビュー曲は「僕のマリー」。飛ぶ鳥を落とす勢いと、生き馬の目を抜く勢いを併せ持つ化け物GSグループ「ザ・タイガース」の誕生である。すぎやまこういち氏に命名されたそのバンド、最後にスカウトされたヴォーカルこそ、鴨沂高校出身の沢田研二その人である。彼がハウスバンドのヴォーカルとして歌っていたジャズ喫茶「田園」。文頭の年号は、その「田園」がオープンした年である。現在は移転した形となっており、看板は「DEN・EN」、業態はパブとしてあるが、今回紹介するライヴハウスがあるビルに足を運べば、その地下にその伝説の名を見ることができる。

正確に言えばここは、
ライヴハウスではなかった。

 同ビルの4階に、VOX HALLはある。かつて、そこには「BIG BANG」というライヴハウスがあった。スタート当時、BIG BANGはビル直営であった。正確にはライヴハウスではなく、イベントホールという位置づけである。やはり京都は学生の街、飲食部門も、物販部門も、ビル全体が「学生からの情報発信」あるいは「学生たちの情報源」という大きなコンセプト下にあった。飲食部門に包括されたBIG BANGが狙った役どころには「文化系サークルの発表の場」という性格もあったわけである。
 2フロアを使ったホールはステージを底辺に、急な勾配で客席が連なる独特な造りを持つ。最後列の観客は、かなりステージを見下ろすことになる。確かに、ライヴハウスとして見れば変わった造りである。当時のマネージャーで現STUDIO IZの社長・後藤氏は言う。「何にでも対応できるホールというのが前提にあったからです。ステージ背面にはスクリーンがありますから、16ミリフィルムの上映もできる。プロジェクターを併用したライヴもできる。ステージの前には市松模様のフロアがあって、その真上にはディスコ照明があって、ディスコとしても使えました」。ところが前述のDEN・ENなどは、飲食店としてBIG BANGに比べてステータスがあったとも。何はともあれ「知名度を上げること」。これがまず、BIG BANGに課せられたテーマであった。コンセプトとビジネスのバランスを考えれば、順当な考えだ。

’80年代という時代に、
生まれたという意味。

 BIG BANGの出演者リストが今でもVOX HALLに保管されており、オープン当初の’82年のページにはカシオペア、スクエア、スターダストレビューなどの名前がある。前回までに紹介した「RAG」で聞いたクロスオーバーやフュージョンという名で台頭してきた旗手の名前である。さらに、ジョニールイス&チャー、シーナ&ザ・ロケッツ、原田真二、野村義男&グッバイ、大江千里、安全地帯など、ジャニーズが誇った「たのきんトリオ」の一角からエピックソニーの看板アーティストの名前までが並ぶ。みな’80年代を代表するアーティストである。中には聖飢魔2やZELDAなど、’80年代の後半に火が付くバンドの名前もあり、そのブッキングは早いものだったと言えるだろう。2年後の’84年になると、レベッカやパーソンズ、バービーボーイズやボウイの名前が登場する。後者の2バンドは動員者数がそれぞれ18人と109人とあり、全盛期を知る者には信じがたい数字かもしれない。デビュー直後のブッキングだったためだろう。さらに’89年には、GDフリッカーズ、大江慎也、DE-LAX、SHOW-YA、GARAPAGOS、JASTY NASTY、有頂天、コレクターズらの名前が並ぶ。
 前回で検証した前述のクロスオーバーやフュージョンから、パンクムーブメント、そして「歌謡曲かロックか?」などという論争が現れ、さらにバブル景気と並行していわゆる「バンドブーム」へ入っていったのが、この’80年代であった。今では当たり前の言葉となった「インディーズレーベル」という名前が出てきたのも’80年代の中頃で、ヴォーカルのケラ(現ケラリーノ・サンドロヴィッチ。)が率いた有頂天や、同じくヴォーカルの大槻ケンヂが率いた筋肉少女帯などを擁した「ナゴムレコード」はその最たるものであろう。バブルに浮かれ、POPEYEやnon・noなどのファッション誌がバカ売れしたのと同時に、JICC出版局の「宝島」がサブカルチャーを一手に背負った。そんな時代であった。ちなみに、現在は「NYLON100℃」という劇団を主催するケラは、最近その名も「1980(イチキューハチマル)」という映画を撮っている。

バンドを育成することと、
知名度を上げることと。

 企画室が編成され、これから伸びていくアーティストにステージを与えるためのイベントも計画された。「Sound On Wave」というイベントがそれで、1回目に出演したバンドは爆風スランプ、レベッカ、バービーボーイズといった面々。当時の八瀬遊園の野外ステージを使用し、叡山電鉄の臨時列車を用意し、大規模なイベントとして行われている。前述の後藤氏は言う。「京都というのは不思議な街で、非常に食いつきが悪い(笑)。大阪や名古屋では(観客が)入るイベントやライヴでも、京都ではなかなか入らないんですね」。これは致し方あるまい。京都人の典型的な、思慮深い、悪く言えば腰が重い行動傾向である。対応策として、週末のディスコ営業には、件のレベッカ(レベッカに関しては特に、レーベルの大阪担当者から強力なプッシュと応援要請があったという)の音源を流してバンドそのものの知名度の向上を狙った。そんな努力の甲斐もあり、京都地区がかなりの成績を上げたという。その数年の歴史の中で、ブッキングマネージャーと東京のプロダクションとのコネクションとの繋がりも深くなった。

パンク、ニューウェーブ、
ハードロックにメタル。

 当時のライヴハウス事情を振り返ると、300人を動員できる、レコード会社のプロモーションが可能なライヴハウスがなかったことも、BIG BANG成功の理由に挙げられるようだ。ブルース系のバンドには磔磔というメッカがある。そして当時主流を占めたポップ系(ウェストコースト系のポップサウンドを持ち込んだナイアガラトライアングルの山下達郎や大滝詠一、佐野元春、杉真理。後の大江千里など)のアーティストや、セミプロやアマチュアは、このBIG BANGと今はなき「サーカス・サーカス」に出演の場を求めた。BIG BANGでは’70年代後半のソウルミュージックの系譜を踏襲する、京都産業大学出身のイタチ(後のTOPS)やSOUL DO OUTというバンドや、先述のサブカルチャー系、当時のパンクやニューウェーブ、さらにはハードロック系のアースシェイカー、44マグナム、ラウドネスらも台頭し、幅広いジャンルを包み込むハコとなった。神戸のライヴハウス「チキンジョージ」を筆頭に大阪、名古屋、広島、静岡など、全国のライヴハウス同士で情報交換し、バンドやアーティストを紹介しあった。プロモーターはさぞ助かったに違いない。ライヴハウスがブッキングマネージャーをかって出たようなものなのだから。結果的にミュージックシーンの底上げを担った事に間違いはないだろう。「出演する側もライヴハウスも勢いがありましたね」。後藤氏はそんな述懐で結んでくれた。

ひとつ歴史が幕を閉じ、
その遺志は継がれていく。

 だがBIG BANGは’92年、その歴史の幕を閉じる。現在は「JEUGIA」の管轄となっており、名もVOX HALLと改めている。その直接の原因には、様々な要素がある。中でも重要だったのは、「当初の目的である何でも出来る『学生からの情報発信』『学生たちの情報源』という目的が達成できなかった」。何でもできる、ということは、専門的ではないということだった、ということか。「ライヴハウスである以上、いかにアマチュアをステージに上げられるかという事も目的であるはず。その育成ができきれなかった」ということであった。
 後藤氏としても手をこまねいていたわけではない。「MUSIC CIRCLE LEAGUE」という各大学のサークルから代表を選出し、トーナメントを行い、その優勝バンドはBIG BANGが責任を持ってプロデュースしてデビューさせるという企画も立ち上げた。「CHICKEN DANCERS」という立命館大学出身のバンドが優勝、’91年7月21日にテイチクレコードから公約どおりデビューした。だが後藤氏は’89年3月の同バンドの優勝を見届けた後、そのデビューを待たずにBIG BANGを離れている。自戒を込めて言う。「ライヴシーンとしてはある程度成功することができました。でも情報発信をもっとしたかった」。今は「そのお手伝いを少しでもできたらね」と、ミュージックスタジオを経営しており、定期的にVOX HALLでイベントも開催している。