磔磔 1

 「『磔』の字は『はりつけ』と読むんですよ」。

 数年前、このライブハウスの主に会ったとき、別れ際に彼はそう言って少し笑った。「物騒な店名だな」と思ったが、さらに突っ込んで話をうかがう時間もなく、ただ、辞去するまで屋号の由来を聞き逃していた迂闊さが悔やまれた。

「もっぱら観る方で(笑)」拾得に通っていた
 このライブハウスの生い立ちについては、同店のウェブサイトに「1974年開店当初はレコードだけの音楽喫茶でした ぼちぼちライブをやりだしたのは1975年の半ば頃からです」とある。残念ながら、現在の主はこのライブハウスのオープン当時を知らない。水島博範氏が、出身地の長崎から京都にやって来たのは大学入学のため。’71年のことだった。同じくホームページには「(氏の)最初のバイト時間給が250円、市電が25円、銭湯が30円ちょっとで1円単位、六畳一間の下宿が6000円~」とあり、「LPは2500円もしていた(中略)あちこちにロック喫茶があって新譜目的にコーヒー一杯で何時かも粘った世代」と続く。自らもバンドを組んでいた当時の音楽少年にとって、やはり’70年代初頭はこのコーナーのテーマとして触れてきた時代背景と、何ら変わりはなかったようだ。学生運動華やかかりし頃。ただ氏は言う。「学生運動と言っても、実働部隊はそう多いわけではなかった。その周りにいるシンパがいっぱいいただけ」。自らも、どちらかと言えばシンパであったと。
 当時22~23歳の青年だった氏にとっても、先月、先々月と紹介した拾得の出現は衝撃的だった。「もっぱら観る方で(笑)」拾得に通ったと言う。
関西でロックのライブといえば
京大西部講堂、円山音楽堂…

 そんな氏だったから、この磔磔の誕生については「あることすら知らなかった。(磔磔が)できて1年ぐらい経ったときに(拾得と)似たようなのができたと噂で聞いた」。大学を中退してバイト暮らしを数カ月。何をしたというでもなく、アレコレと3カ月スパンでバイトを変えていた頃、氏は’76年からこの磔磔で働き始め、今に至る。当時の磔磔をして「民芸調の喫茶店。(拾得のように)思想があったわけではない」と言うのは謙遜か本音か。
 「’75年頃まだライブハウスという言葉もなく、今のようにほぼ毎日どこだでライブをやっているわけではなかった。’73年拾得、’74年磔磔、’75年サーカス&サーカス、と続々と京都にライブハウスが出現!ロックまっしぐら!と思うのは今(原稿が書かれた)’99年から見るとそう見えるのであって当時は混沌としていた。(中略)それまでは、またそのころは関西でロックのライブといえば京大西部講堂、円山音楽堂、京都会館等での単発コンサート、また東京のバンドが多く参加した『モジョ ウェスト』(後略)」。これもウェブサイトからの引用である。過去の当コーナーで紹介した諸氏の言質と、時代的に、背景的には符合している。

どんなライブハウスかって?
こういうライブハウス(笑)

 今年、奇しくも磔磔はオープン30周年を迎える。一言でライブハウスの性格を説明するなど、愚の骨頂とは知りながら尋ねてみる。「どんなライブハウスかって? こういうライブハウス(笑)」。氏が指した先にあるのは4月のスケジュールであった。主だったところを挙げてみる。2日・West Road Blues Band(ヴォーカル・永井〈ホトケ〉隆、ギター・山岸潤史)、10日・Zi:LiE-YA(唄 柴山俊之)、20日・石田長生 トレスアミーゴス、23日・近藤房之助 Fusanosuke&His B&O、24日・麗蘭with水島、25日・木村充揮、5月1日・ ROCK’N’ROLL GYPSIES(ヴォーカル&ギター・花田裕之、ドラム・池畑潤二)といった具合。それぞれ、ご存じのアーティストもそうでない名前もあるだろう。ちなみに24日のスケジュールにある「with水島」とは、主の水島氏の事である。R.C Successionのギタリスト「チャボ」こと仲井戸麗市と、the street slidersのギタリスト「蘭丸」こと土屋公平のユニット「麗蘭」に堂々参加なのである。13日~14日に至っては「ジャパニーズ ロック レジェンド」と題した、’76年に撮影され、翌’77年にオンエアされた毎日放送と磔磔によるMTVの元祖とも言えるミュージック・テレビプログラムの上映会だ。

前述のホームページは
実に立派なアーカイブである

 ともあれ、まずは定石通り、磔磔の歴史と共に、京都の、そして日本のミュージックシーンを振り返ってみる。
 ’75年から’03年途中までの、全出演者が網羅されている。前述のホームページである。実に立派なアーカイブである。もちろん、紙幅の都合上、このページではその全てをご紹介することは不可能である。ウェブサイトでのご一読をお勧めする。
 磔磔の創生期。’75年の出演者には憂歌団、近藤等則、やしきたかじんらの名前がある。余談だが、面白いのは「磔磔落語会」「磔磔寄席」などのタイトルで、定期的に落語会が開かれていることだ。6月の「磔磔寄席」は笑福亭一門が出演者。笑福亭鶴瓶の名や、20日の「落語会」においては桂文福の名前がある。
 翌年になると、憂歌団の出演頻度は変わらず、R.C Successionの名前が出てきたりする。「この頃は観客も30人ぐらいやった〈水島氏〉」。正に駆け出しの忌野清志郎を目撃したライブハウスである。同年6月29日・憂歌団、West Road Blues Band、そして宮川左近ショー。素晴らしいタイバンである。他にはかの上田正樹 & South to South、桑名正博 & Ghost Town People、河島英五 & ホモサピエンスなど、さらに’77年になると、鈴木慶一& Moon Riders、遠藤賢司らの名前が出てくる。
 世界的には、グラムロックからパンクへと向かおうという時期、ブルース・ムーブメントの雄West Road Blues Bandや上田正樹 & South to Southは出色の動員数を誇ったと言う。「今はよぉわからんバンドでも立ち見が出たりするけど、当時はそんなことはなかった。200人入ったらすごかった。プレイヤーもマネージャーも観客も全部20代。30代なんか珍しい〈水島氏〉」。

『誘惑されて捨てられて』
いずれも短命だった 

 そして’70年代から’80年代への過渡期。水島氏の述懐を引用させていただくと、「例えばお客さんからの電話『今日はどんなバンドが出ますか』に対し『ロックです』『フォークです』『フュージョンです』で何とかいけたのだが(本当は『いいバンドです』『それほどでもないです』と答える方が正解だろうが)ちょっと説明しにくいバンドが出現し始めたのだ(中略)ニューウェーブ、パンクなどと呼ばれた一連の動きで一番衝撃はなんといってもフリクション」とある。さらに「もうひとつカッコいい流れ」としてA.R.B、ルースターズ、ロッカーズ、モッズら博多出身の「めんたいロック」などと呼ばれたバンドの台頭・出演を挙げている。’80年5月のスケジュールは、20日・一風堂、22日・R.C Succession、23~24日・ジョニー大倉、25日・シーナ&ロケッツと続いている。他にも、アナーキー、スタークラブらの骨太なロックが名を連ねているこの頃から少し後、「’84年頃になるといくつかのビートバンドが出現したが、ちょうどレコード会社の青田刈りの時代にあたって『誘惑されて捨てられて』いずれも短命だった」と述べ、今に続く悪習を上手く評している。

事実この時期、たくさんの
ライブハウスが消えていったんです

 ’80年代。レッド・ウォーリアーズや織田哲郎、ローザルクセンブルク~ボ・ガンボス、バクチク、筋肉少女帯らの名前が出てくる。面白いところでは聖飢魔2やゴンザレス三上&チチ松村の名前がチラホラ見える。それぞれ「ヴィジュアル系はあんまり来んかったなぁ」「(客が)入らんかったなぁ」と振り返り、さらに’80年代に対する氏の述懐は辛辣になってくる。「さして音楽好きでもない連中がバンドをやり始めたのが’80年代でメタルはその代表じゃないだろうか。友達作りにバンドを選択したとは言い過ぎだろうか(中略)メタルのほとんどはロックとは無縁。カレッジフォークを大音量で演っとるだけやんかというのが殆どだった。しかし磔磔は新しいバンド出現の端境期、谷間をヘヴィーメタルで何とか乗り越えたのでした。経営の面で此がなかったら、’80年代半ばでつぶれていたこと間違いない。事実この時期、たくさんのライブハウスが消えていったんです」。
to be continued