New Year Rock Festival @ 京大西部講堂

「既存のメジャーをぶっつぶせ」
それは33年前、既にあった言葉
 今からおよそ25年前、ひとつのスローガンとともに、新しい作品が生まれた。そのスローガンとは「ヤマトをつぶせ」であったという。ヤマトと言っても、先頃公開された映画ではなく、「宇宙戦艦ヤマト」シリーズである。松本零二原作のこのSFシリーズは、当時のアニメ界において絶大な人気を誇っており、「ポストヤマト」は業界内でのテーマであった。そして、件のスローガンを掲げ、’79年に放映が始まったのが「機動戦士ガンダム」という作品である。以来、現在まで幾多のシリーズが制作され、今ではいわば日本アニメ界の保守本流となったわけだが、その時代時代で、常にリーディングパーソンが存在し、それを覆そうとする勢力が現れる。それを「カウンターカルチャー」と呼ぶには大げさな場合もあるだろう。だが、新勢力がやがて流れの本筋となっていくケースは、古今、枚挙に暇がないことも事実だ。
 「ヤマト」を、「紅白」という言葉に置き換えた面子がいた。いや、正確には「ヤマトをつぶせ」と叫ばれたよりも、まだ前の話である。「紅白」とはつまり「紅白歌合戦」。今をさかのぼること33年前、「大晦日の夜のセオリー」を覆そうとした者が現れたのである。’72年、「New Year Rock Festival」の誕生である。

超高視聴率の国民的番組に対する
カウンターカルチャーというもの

 発起人は内田裕也氏。毎年、大晦日近くになると番宣のために、昼のワイドショーなどに顔を出す彼らについては、ご記憶の方々も多いだろう。昨年末も、内田裕也氏以下、ジョー山中氏、安岡力哉氏や白竜氏、シーナ&ザ・ロケッツの面々が登場していた。昨年から今年にかけての同イベントは、日本・中国(上海)・韓国(ソウル)の三元同時開催であった。アジアを巻き込んだ企画は同イベントの念願であり、ようやくその実現がなったという。オフィシャルサイトのトップページには、「内田裕也の夢、第一歩、遂に実現」とある。
 スローガンは知れた。「紅白をぶっつぶそう」である。「つぶす」とか「ぶっつぶす」という日本語は、なかなかに過激なのだが、覇気の漲る面子を思えば、まぁ得心がいくだろう。当時の時代考証については、当コーナーが開始当初より後見役をお願いしている木村英輝氏が明るく、そもそも、同イベントは「渋谷西武劇場」という場所で始まったものだという。初回の出演者の中には、何とまだ現役の「キャロル」や「加藤和彦とサディスティックミカバンド」、「かまやつひろし」「クリエイション」「頭脳警察」らの名前がある。後に「ジョー山中」や「柳ジョージ&レイニーウッド」「ゴールデンカップス」の名も見えはじめ、’70年代中頃からは宇崎竜童率いる「ダウンタウンブギウギバンド」や、「浅草劇場」で行われた’76~’77年には、伝説のバンド「紫」の名前が、さらに’79~’80年に入ると「RCサクセション」「ハウンドッグ」、’80~’81年には「シャネルズ」「もんた&ブラザース」「アナーキー」、飛び入りで「萩原健一」や「松田優作」の名も見える。さらに翌年には「ARB」「モッズ」「子供バンド」「スターダストレビュー」に、「ビートたけし」の名が、’80年代も中盤近くになると「陣内孝則」「ゼルダ」「バウワウ」「爆風スランプ」「ルースターズ」に、「パーソンズ」や「ボウイ」の名前まである。
 その時々で、恐らくはメジャーになる一歩手前、血気盛んで、語弊を恐れずに言えば、決して紅白歌合戦には呼ばれないであろう、後のスターたちが多く参加している。今でこそ、視聴率を云々され、その存在意義や番組のつくり方について取り沙汰される番組であるが、30年余り前で言えば、押しも押されもせぬ国民的超高視聴率の看板番組である。それをつぶしてしまえというのだから、カウンターカルチャーの面目躍如と言っても良いだろう。

同イベント皆勤賞のひとりが
関西、それも京都に象徴を求めた

 その中に、初回は「ファニーカンパニー」名義で名を連ね、さらにソロとしても常連なのが桑名正博氏である。同イベントにおいては、’90~’91年から’99~’00まで、都合10回の「in関西」というシリーズが開催されている。その中心人物が桑名氏であり、実は今年、東京・上海・ソウル以外にももう一ヵ所、四元めとなる会場が存在した。どこあろう、それが京都である。場所は最も象徴的なハコと言って良いだろう、京大西部講堂。そのコーディネイトについても、木村英輝氏の尽力があった。桑名氏本人が、京大西部講堂にかなりの思い入れをもっていたようだと、木村氏は言う。
 出演者は発起人である桑名正博氏、その妹さんでもある桑名晴子氏、ご子息である桑名錬氏と彼が率いるバンド、さらには元KUWATA BANDの小島良喜氏、特別出演にはかのザ・スパイダースのリードギタリストでもあり、今や重鎮である井上尭之氏の名がある。その他、「LISING GOSPEL BAND」「ソルトウェイトブルースバンド」「フライングダッチマン」「EL DRA」「MASA & ロンスターヒックス」「ロボピッチャー」「ゆーきゃん with his best friends」「THE SERIAL」「片山ブレイカーズ & ザ・ロケンローパーティ」「騒音寺」「珍獣王国」「仲田耕実」「塩次伸二」「妹尾隆一郎」「小林エミ」「ジュン上久保」「豊田勇造」と続く。中には弊誌のインタビューに応じてくれたアーティストもいれば、ライヴの模様をリポートさせてもらったバンドもいる。

当時のスローガンなど知らずとも
ここには歴としたカルチャーがある

 当日の様子について、正直、若干の不安も抱いていた。「New Year Rock Festeval」の名は知っていても、今年の来場者の中に「紅白をぶっつぶそう」というスローガンを知る人はいるのだろうか。カウンターカルチャーとしてのロックやブルースに心酔する人はいるのだろうか。特に、若年層の反応はいかがなものか。まるで杞憂だった。場内ではそこそこ壮年世代の、しかも女性が酒を片手にブルースに合わせて身体を気持ちよさそうに揺らしている。明らかに30年前の京都ミュージックシーンを体感したと思しき男性も、ピュアなブルースとベテラン陣のプレイに、幸せそうに見入っている。そして会場の半分以上を占めていたのが若年層のオーディエンスであった。真剣にステージを注視する者あり、プレイの細部を聞き逃さぬように、というよりは、祭として楽しんでいる様子の者あり。会場外にはおでんの屋台なども出て、出番の終わったミュージシャンと学生が並んで美味そうにつついている。
 改めて、イベント名を考えてみる。「新年ロック祭」。何とシンプルで解りやすいことか。そして、その名のとおりの風景がそこにはあった。
 いよいよ24時に近くなる。これだけの演者のタイバンである。多少タイムスケジュールは押してくる。まぁ、祭となればなおさらだ。曲と曲の合間を縫って、木村氏が壇上に上がる。「演奏中やけど、そろそろカウントダウンやから、ちょっと中断して~。桑名くん、桑名く~ん、皆つれてステージに出てきて~。それから、高見くん、一言ちょうだい!!」。木村氏が呼んだ高見君とは、同イベントをサポートした「TAKAMI」の社長、高見重光氏のことである。
 牧歌的というでもないが、四角四面に仕切られたイベントとは明らかに趣を違え、その中断に異を唱える者も皆無、むしろちょっとしたイレギュラーを楽しみにウズウズしていたとさえ思える、一体感のようなもの。それが生まれる。ステージにしつらえられたスクリーンを改めて見る。そこには「戦争はあかんで」と一言。「LOVE & PEACE」の’70年代から、多くのアーティストやミュージシャンが、時にライフワークとして掲げる思いも、言葉にすれば簡単すぎて響かなくなってしまった現代である。だが吸う空気の温度と味によっては、シンプル故にあまりにも心の深奥に食い込んでくることがある。恐らくこの日がそうだった。
 カウントダウンが行われる。この日、’06年最初にオーディエンスが聴いた曲は「Sweet Home Chicago」であった。ライヴはその後も続いたが、ブルース不朽の名作をモチーフに、大団円を迎えたのである。

山があるところに、裾野はある
京都の山は、高く、そして裾は広い

 世代を問わず、場内の同じ空気を吸い、そして吐く。それがライヴの醍醐味、そして祭の意義だとするならば、年末の京大西部講堂にはそれがあった。これが連綿と続く京都の音楽属性、オーディエンス属性なのかどうかは解らない。だが確実なのは、およそ500人からの来場があったことと、少なからず若者の姿があったことだ。それはすなわち、「裾野の広さ」だ。もちろん、中には年越しライヴに行く向きもあろう。だが昨今、年末のカウントダウンと言えば、街なかに繰り出し、めいめいが馴染みのバーやクラブで顔見知りとともに新年を祝い酒を酌み交わすという姿だろう。
 そんな中で、今年の京大西部講堂で見た風景は、「やっぱり京都のミュージックシーンは大丈夫だ」と、そんな風に思える、良い景色であった。