PARKER HOUSE ROLL 1

単なるダイニング・バーに見えたのを
瞬時にライヴハウスに変えてしまう技
 証言者がいる。彼がその店に通い始めたのは20歳そこそこの頃、DCブランドが華やかなりし時代だった。先輩に連れられて、勤務先の河原町や北山から、この烏丸松原下ルに来てはサントリーの白角とアタリメを肴に服談義を交わしていた。「イタメシ屋」「プールバー」なんて言葉が格好いいと言われた時代、酒を飲む店ならコンクリート打ちっぱなしな無機質な造りが大流行だった当時としては、派手さもケレン味もない、ごく普通の店だった。彼の職業、当時で言う「ハウスマヌカン オム」が選ぶ店にしては、いっそ地味と言っても良かったが、「それでもとにかく落ち着きが良い、というか腰の据わりが良い」。そんな理由で、自らの結婚式の二次会にはその店を選んだ。’95年の秋、彼が26歳の年である。
 その二次会で、自らも少々ギターを嗜む彼は、ふたりの友人に頼み事をした。「一曲お願いできないか?」と。頼まれた友人もプロではなく、「単なる賑やかしなら却ってシラける。二次会に水を差す」と思ったそうだが、たっての頼みとあっては断り切れるものではなく、各人1曲ずつ、計2曲を2本のアコースティックギターでもって披露することにした。
 当日になっても、奏者に抜擢されたふたりは「BGMになれば」ぐらいに思っていた。二次会が始まり、宴もたけなわ、店の片隅で目立たぬようにゴソゴソと準備を始める。用意されたマイクとマイクスタンドは2本。声も音も同時に拾うように口とギターの中間にマイクを固定した。司会者が来場者に出し物の旨を伝えてから数秒、その店は業態を異にした。ダイニング・バーからライヴハウスへ。誰が頼んだわけでもない。店のスタッフの仕業である。照明ひとつでドンデン返しを決めて見せた。驚いたのは奏者のふたりである。カウンターもボックス席も真っ暗になり、わずかに残った光源は、全て自分たちに向いているのだ。それだけで来場者から拍手がおきた。もうムチャクチャである。ヤケクソである。「ままよ!」とばかりに腹を括って、わずかにこなした練習どおりに2曲を披露し、結局大喝采を浴びた。「これはただの店じゃない。拍手は自分に向けられるべきじゃない。この店にこそ与えられるべきだ」。奏者のひとりはそう思った。最もシンプルでいて、最も効果的な演出。照明ひとつで「BGM以下」を「ライヴ音源」にしてしまう。その奏者は確かに見た。カウンターの奥に「してやったり」と満足げなマスターの顔を…。
 そして、その店「PIG NOSE」は翌年の夏に閉店し、秋からは名を「PARKER HOUSE ROLL」と改めた。現マスター・中島博志氏は言う。「『PIG NOSE』は、マイナー・メジャーな、ちょっと音楽が好きな人には有名な店やったからね」。件の彼は、なかなかに鼻の利く、もしくは耳の利く男だったようだ。
「あの店を忘れてないか?」と言ってくれたのは
先々月にご登場の「都雅都雅」の松井氏だった
 先の取材中、話の流れの中で松井氏が「ウチは二番目やったけど、泉谷しげるが京都で初めてライヴやったのは、あの店やで?」と言った。それが同店だ。マスター・中島氏は「いやぁ、飲食店の取材だったら断ろうと思ってたんですよ」と静かに笑う。穏やかな方である。
 「まぁ、一通りは揃いましたね」と中島氏が言うように、スタンドピアノ・ベースアンプ・モニターに、ドラムセットまで置いてあり、ライヴハウス然としているのだが、はじめからこんな様子ではなかったという。「PIG NOSE」のマスターと旧知であった中島氏が「やってみないか?」と店の引き継ぎを持ちかけられたとき、「あまり乗り気はしなかったんですよ。だって、烏丸でしょ(笑)。『ムリやわ』」と、半ば断る気でいたらしい。だがその当時、唯一常備していたピアノも前のマスターが引き上げ、それこそ何もない状態の店を引き継ぐことに決めた。「いずれはライヴをやりたいと思っていたので。少しずつ揃えたというか、ライヴがあるごとに、PA屋さんにお願いして古い機材を一つひとつ安く譲ってもらって(笑)」、丸9年かけてここまで揃えてきた。
 ここで中島氏の経歴を軽くご紹介すると、この店を引き継ぐ前は東山三条の飲食店に勤めていた。さらに遡ると、「ZAC BARAN」開店当時のスタッフだと言う。「ZAC BARAN」と言えば、本誌でも何度もご紹介しているし、京都では有名な飲食店「SECOND HOUSE」の系列店である。系列と言うより、その祖となった店と言っても良い。中島氏がスタッフとして働いていたのが、既に四半世紀も前の話である。「KYOTO CLUB METRO( ’05 1月号で既報)」とも縁が深く、「メトロのニックとか(メトロのオーナー、ニック山本氏)、まぁ今はニックの名前の方が有名やけど、僕らは『たっつぁん』と呼んでました」。いきなり繋がった。やはり類は友を呼び、同じ穴には狢が住まうのか。
「拾得」「磔磔」、今はなき「サーカス&サーカス」…
ライヴ終わりにやんちゃくれが通う店だった。
 「どうなんやろ。音楽と関わるようになったのは別の店なんやけど、まぁ今で言うフリーターみたいにフラフラしてるときに『中島君、今なにもしてないんやったら、ウチで働くか?』と誘ってもらって4年ぐらい『ZAC BARAN』にいたんですね」。当時の「ZAC BARAN」と言えば…。「そう、やんちゃなのばっかりでね(笑)。『拾得』『磔磔』『サーカス&サーカス』…、そのへんでライヴをやった後に皆が集結する場所で、楽しい店でしたよ」という、そんな頃だ。時は ’70年代後半から数年。その頃で記憶にある音は? 「時代はニューウェイブ、(クロスオーバーと呼ばれた頃の)フュージョンと、並行して僕らの中ではレゲエがありましたね」。この辺りの時代観的な話は、やはり「KYOTO CLUB METRO」や「RAG」の回をご参照いただきたいが、当時全国的に活躍していたバンドを挙げれば、メジャーなところでは「サザンオールスターズ」「ツイスト」「ゴダイゴ」から、「スペクトラム」「クリエーション」、後藤次利が参加した「トランザム」といったツウ好みのバンド、そして松田優作が主演した伝説のドラマ「探偵物語」や、同じく故・沖雅也や柴田恭兵・神田正輝らが主演したドラマ「俺達は天使だ」の主題歌を歌った「SHOGUN」なども挙げて良いだろう。いわゆるベストテン番組の放映が始まった頃でもある(TBSの「ザ・ベストテン」が ’78年、日本テレビの「ザ・トップテン」が ’81年に放映開始)。「キャロル」を解散した後の矢沢永吉がソロで活躍し「時間よ止まれ」をヒットさせた頃、「キャンディーズ」や、先頃再結成した「ピンクレディ」らが人気絶頂、女性シンガーでは「山口百恵」がとどめを刺す、歌謡曲全盛期。彼女らとともに、「ファニーカンパニー」からソロになった「桑名正博」が「セクシャルバイオレットNo.1」をヒットさせ、「サウス トゥ サウス」の「上田正樹」は「悲しい色やね」をヒットさせた。
 京都では「『BREAK DOWN』がマンデーブルースといって、週に一回、『磔磔』で月曜日の夜にライヴしてたねぇ。あとはブルースロック系とか、『サーカス&サーカス』やったら『イタチ(後の「TOPS」)』とか、それよりちょっと後になると『ローザルクセンブルク(故・『どんと』が率いたバンド。後の『ボ・ガンボス』)』なんかは『拾得』でバイトしてて、ハネてから『ZAC BARAN』に飲みに来てたりとか…。う~ん、やっぱり1ジャンルじゃなくて、グチャグチャっとあったんじゃないかなぁ」。ディスコではソウルディスコが全盛、思えばジャンルもクロスオーバーである。音楽が多様化し始めた頃と思っても良いかもしれない。「『磔磔』の水島さんとかもよく飲みに来てましたよ」。何と、御大までもが通っていたとは。思えばかの「磔磔」もオープンして数年という時代だ。「やっぱり、今の子よりはトンガッてたね。『磔磔』の水島さんや『拾得』のテリーさんって、取材したら50歳のオジサンやったろうけど、当時は20代後半の血気盛んな兄ちゃんやからね(笑)。やんちゃやったで(笑)」。
「DJじゃなくバンドのライヴを初めて観ました」
きょうび、そんなもんなんやなぁって(笑)
 同店の歴史としてはまだ10年足らずだが、メンタリティは「拾得」「磔磔」レベルである。現代のミュージックシーンへの憂いは、だから良い感じで枯れている。楽器店ではギターよりもターンテーブルが売れている現状も、「しゃあないっちゃしゃあないよね。ウチはバンドのライヴしかしないんやけど、一回バンドのライヴと同じ日にDJのライヴってのをしたことがあって、見に来たお客さんと喋ってたら『私、バンドのライヴって初めて観ました』っていう人が結構いたから。きょうびの世の中って、そんなもんなんやなぁって(笑)」。中島氏の場合、当時の音楽環境で育ったものの、自らがライヴができる店を立ち上げたのがそれよりずっと後であるという、そのギャップが面白い。
 「ここ(同店)はねぇ、そんなにガツガツとライヴをやるつもりはなくて、まぁ僕の好きな人が好きなタイミングでやってくれたらいいかな、と。『人の輪』的な感じかな。『ZAC BARAN』で働いてた時からずっと知ってる人、この店を始めてから知り合った音楽やってる人、20代の頃に知り合った東京のミュージシャン、京都から東京に行って、デビューとかはしてないけどコツコツやってる人、そういう輪もあるね。東京に行ったツレが向こうで知り合った人を紹介してくれるとか。『中島のトコでやらしたってぇな』って言ってきてね。で、来た人がまた違う人とユニット組んでたり。だから店の方から『いついつ来てね』っていうのは一切無いんですよ」。ブッキングマネージメントというものがないらしい。もちろん、先方の都合でダブルブッキングになってしまえば、どちらかは断ることはあるだろうが、全てはバンド任せ。空いてたら「いいよいいよ」と。
テーブルと椅子以外はスッカラカンで引き継いだ。
そこから少しずつ、ライヴハウス然としてきた。
 話が行ったり来たりするが、「PIG NOSE」のマスターであった久場氏は「浅川マキ」と昵懇の間柄であり、関西での彼女のライヴを全て取り仕切っていたような人物だった。「PIG NOSE」をオープンさせるのにあわせて、京大西部講堂で5日間連続で浅川マキのライヴを行い、その打ち上げでもって開店のオペレーション、今で言うレセプションを行ったという。中島氏もその折に、スタッフとして手伝いに来ていた。「そこに集まってきたメンバーなんて、近藤等則がいたりね、それは錚々たるもんやからね」。そういった話は不思議と回るものだ。それ以前に「久場が店をやるらしい」という噂で充分だったのだろう。「ちょいと音楽好き」、が集まるわけである。23年前のことである。「彼(久場氏)も、もともとは浅川マキとは面識がなかったんやけど、『好きやから(オーガナイズを)やらしてくれ』と。言ってみれば『いちファン』から始まってるから、スゴイよね(笑)」。店がどうとか、営業がどうとかではないのだから、それは立派な話だ。むしろ店など後付けだ。「きっと浅川マキのために、この店出したんやろうね(笑)」。自分のために歌ってもらうために。目の前で生の声が聴けるように…。熱意は人を動かしむる。
 となると、前のマスターを良く知る人物として、「PIG NOSE」の生い立ちや経歴を知ればこそ、中島氏は余計に引継には迷われたに違いない。しかも9年前の烏丸と言えば、今ほどの殷賑を見せていない頃だ。「そうそう(笑)。こっちは別に有名な人と知り合いってわけでもないしね。だから僕は何の宣伝もせずに店を始めましたからね。下手に宣伝してもね」。内装を大がかりに変更したわけでもない。壁の色を変えたぐらいだ。後に壁面一面にコンパネを設け、ライヴハウスというよりも画廊に近い状態にしてもいた。機材が揃った今では、こういう言い方は語弊があるだろうが、中途半端なハコよりもライヴハウス然としたルックスになった。「古くさいですけどね(笑)」。それでも少しずつ、少しずつ、音楽の匂いがする店になっていった。
to be continued …