Revolutionary Kyoto:'70s ロックシーン

サムライ

ミッキー・カーチス&サムライ

現実を直視して進む理知的河童 “ サムライ ”
Malcolm B.Davis @ Billboard PHILIPS RECORDS

かって、この著者は、小川の流れる日本の山里で初めて河童を見た。少なくとも見たと思っている。
人々は、ビートルズや、モンキーズや、他のスティカルな動物達が出現する前までは、何が河童で、唯れが河童か、又何がそうでないか知る事がなかった。
私は、河童とは、目的もなく、だらしないもので、もう滅んでしまったものだと思っていたから、
“ミッキーは河童じゃないよ“といった事は、その意味で確かだった。
そして、常に正気の頭と、現実世界に、しっかりと根を下した、みずかきのある足を持った野心的な河童である。おそらくその、どちらも正しいだろう。
日本の民間説話や伝説に出てくる、根性悪河童は、多くの性格と容姿を持っている 窶煤@人間の姿とか、音楽好みの性格とか…・・・・。         l
そして、日本の国そのものの様に、時代とともに変わって来たのだ。
それでも普通の河童は、(普通でない生き物にも当てはまるかも知れないが)2縲鰀3フィートの身長と、短かく時には長い髪の毛を持った、醜悪な奴として描かれている。
日本語で“河童”とは“水の小供”という意味で、春に小川や池や海に出没すると言われている。頭の天ペんに鉢状の物を持ち、そこに水が一ぱい満されていると、超能力を発揮するが、もしからっぽになると、思考も力も失くしてしまうという。常に水が一ぱい、むらなく入っていないとダメだという。
自分の頭がどこにあって、どういう状態であるかを常に今知っている。
河童の他の多くの特性の中で、カメレオンの様に自分の外界に合わせて色を変えるとか、ち切れた手足も、水棲動物の様に再生する事が出来るという能力がある。
実際、日本の古い話の中に、サムライに切りきざまれた腕を、河童がもとに留したという話がある。
そんな面白い話から、我々は“サムライ”“ミッキー”そして彼のレコードへと思いめぐらしてみよう。
ミッキーと“サムライ”はこのレコードで、日本の都市生活や、日本も世界もその中で水びたしになっている非現実的な時間の、味気ない世界を批判しているのだ。
私にとって、このレコードは、オリジナルであるとか、親しく思い出させてくれる、Farxxxutなものという事よりも、分別のある、河童的姿勢が、このアクエリアスの時代にふさわしいという事を主張している様に思う。
河童と同様、ロック・ミュージシャンや日本の風変わりな物には、秘められたカや、理知や、革命的な考えを持っているものが多くある。
馬鹿か、利口か、残忍な奴か、愛すべき奴か、あるいは、あなたの考えた何であるかにかかわらず、河童は、あなたが出会ったところのものである。
今日の日本の河童は、ほとんど若者である。しかし今日という時代は、彼らの皿状の頭が固くなる時であり、簡単に水を入れる事が出来る時でもある。
正に、水ぽい世界の小供に似た河童は、平和に自分達の均衡を探そうとしているのだ。生れた時から、流暢に話す事の出来る小河童は、時々、軽はづみな言動と行動で、世の大人供を狼狽させている様だ。
作家の芥川龍之介の小説「河童」に、生れて26日の小河童が、如何に神の存在を講議するか詳しく書いている。不幸にして、その小河童は幼年2ケ月と2、3日で死んでしまった。
同じく、他の“保守”河童よりも、すぐれた性力を望む、トックという名のロング・ヘアーの詩人河童についても書いている。

著者は、このレコードのテープを聴いている中に、二度目の河童を見たと思った。

< “KAPPA” SAMURAI より翻訳 >

タージ・マハル ピクニック

小杉武久・小池竜・木村道弘・土屋幸雄・永井青清治・長谷川時夫・林嗣

タージ・マハル旅行団からMOJO竏淡ESTの機関誌に載せる原稿が届いた。木村道弘君が創ったのだが、まったく文章がなく、上(右→)にある写真とタージ・マハル・トラベラーズというロゴ・タイプだけであった。タージ・マハル旅行団のカッコよさが素直にでていて気持ちよかったがMOJO竏淡ESTに集る人達には、余りなしみがないバンドなので、何かタージ・マハル旅行団について説明しておきたい。
私はタージ・マハル旅行団のメンバーが、それぞれ芸術的には、非常に高級であるとは聞くのだが、その前身について知らない。ただ彼らの以前については小野洋子や当時の夫、アンソニー・コックスらと、何かをやったり、麻雀をやったりした仲だという事に興味がある程度である。
今でも、小杉武久や小池竜などは、麻雀が好きで、私と合うたびに、手合せをする。小杉さんはヨーロッパやアメリカを演奏旅行し、特に前衛音楽家として、偉い人らしいのだが、いつも私にまけている。小池さんの方は、なかなか麻雀が強く、たぶん、彼なら小野洋子から銭をまきあげる事が出来ただろうと推測する。
麻雀のあい間に聞く、彼らの音楽に対する考えは、殆かく、リズム・メロディ・ハーモニィといった音楽のくみ合せを嫌い、サウンド(単純に音として)を創造してゆくという簡単な事をやりたいらしいのだ。中近東やアジアにある音楽のように、音楽の三要素を分解せずに、音自体が帯状に移動していくという事だと、現存する例をとって私は解釈している。そして、サウンドを創造してゆくプロセスに於いて、サウンドと同様に楽器を大切に考えている。楽器を作る事もサウンドを創る事も同時に演奏しているという考え方なのだ。自分らの好きな音が生れるものならなんでも抵抗なしに楽器にしてゆく、扇風機や釣竿、へんな電気じかけの器械。しめて200万円ほど、使ってしまったらしい。
たぶん、以前の彼らは、特殊な芸術家や評論家と一緒に何やかやと楽しんでいたのだろうが、去年位いから、ロック・イベントに参加しだしたのだ。彼らは、ロックに新風を吹き込むとか、自分達の創造論理を拡大しようとかいう、たいそうな事を考えていない。ただ広い場所で出来るだけ完璧なサウンド・システムで演奏したいと思っているだけなのだ。ロック・イベントに参加する様になってから、彼らの事務所に若い女の子からの質問の電話がはいるようになり、喜んだりしているのをみると、気持ちがいい。
4月3日・日比谷での彼らの演奏は、なかなか理解しがたい所はあったのだが、それなりのカッコヨサを、集った人達が感じとり評判をよんだらしい。
メンバーの中には、ハプナーや、デザイナーやサラリーマンなど、いろんな人がいる。  
人間社会の文化なり芸術なりが、時間と共に膨張して、人為的にそれらが体系づけられ、何が芸術か、何が高度なのか、素直に解りにくくなってしまった今日、もう一度、人間を通じて、いろんな事を楽しもうとタージ・マハル旅行団が、彼らの演奏を媒介にして話しているように私には思える。