Revolutionary Kyoto:'70s ロックシーン

ロック的な姿勢

Revolutionary Kyoto :mojo-sprit
MOJO WESTスタッフは多数、無限に広がる

MOJOWESTとは

MOJO WESTとは、隔週土曜日、定期的にロック及びロック的事象を中心に自由で創造的な空間を創り出していく事によって、これらの真に解放された世界を日常化しようとするMOVEMENTです。
シンプルに“好きなことは好きであり”“良いものは良い”という事を率直に認め合える価値観を持った社会を求めているのです。その為にはたとえ小さくとも人間のアイデンティティーを根底から問い正す事に真の共感を覚える人達によって、それらを表現する“場”を大切にしたいと思います。生きている限り何かに感動し、何かを求めていかねばならない人達が集まって、求めているものを捜したいのだ、まだまだ、涙や怒りを失ってしまったはずはない、それらを表現し、共感する場がないだけです。今や若者は社会に対して傍観者として存在する事や自己中心的に存在する事は許されないのです。自分達の態度と姿勢を明確に示さねばなりません。

MOJOとは

マディー・ウォータースなどが歌っているI GOT MY MOJO WORKINGというロックのスタンダード・ナンバーに出てくるスラングである。10年以上前、特に黒人達の間で流行した。意味はTogether(一緒)に似ているが正確には現代社会にいながら崇高なMINDの世界へTogetherしようというニュアンスが含まれるべきなのです。WEST 西の町、京都にもMOJOする空間を創ろう。

MOJO WEST  NO.5 ’71・5・15

「金が儲かるわけでもないのに、どうしてそんな運動をやっているか解らない」
……これが世の常識的な意見でしょう。
何如、スタッフはあえて馬鹿な行為に情熱を傾けるのでしょうか?

MOJO WEST

僕等の世界で、今、何かが起っている。ROCKという怪物が、僕等の時代、僕等の文化における知識人の運動・芸術運動をほとんどを統一しつつ、戦線を築いているのだ。
ROCKのもつ、強烈な組織力は、社会全体をすっぽり包摂してしまい、それを変質させつつ、全く別な社会に作り変えることも可能なほどである。ROCKは、あらゆる方向への可能性を失ってはならない。また失わないからこそROCKなのであり、僕等をあらゆる可能性へ解放しうるのである。可能性こそは、僕等の求めるものであり、疎外に勝利するものである。僕等は、ROCKの精神的トリップにおいて得た、可能性を、日常生活へ転化していかねばならない。そうでなければ、そこでの経験は、一時的マスタベーション以外の何ものでもなくなるだろうからだ。マスタベーションがあらゆる想像力、しいては創造力の根源であることは否定できないが、それは、創造にまで高められてこそ意味をもつのである。逃避することは自由だが、ただ逃避するだけでは、いずれ元の世界へ連れ戻されることは必至である。
 僕等は、このMOJO・WESTで僕等の内に得たROCK的地質を決っして転がらない岩にしてはならない。常に転がり続ける巨大な岩にしなければいけないのだ。                         

大東

MOJO WEST TATOO

「もっと、光を!」と叫んで息絶えた男にとって、その時(光)は全てであったに違いない(光)と(影)、その相互関係の逆説的不在証明。
 夏。光り輝やく太陽。昼下がりの街の大路、アスファルトも灼熱の陽射しに鳩えかねて苦痛の坤きを洩らす。
 ホテルの青い窓ガラスを見上げてそれでもボクはふと嘆くのだ。「光を、もっと光を!」
 船ペいを叩く波の音が心地良い。甲板に寝転がって、全身で太陽を吸収しようとするボク。流れる汗。もはや光はボクを包むというよりは、全身を突き刺すばかりだ。その痛みはボクに既にこれ1以上眼を開け続けることを許してくれそうもないほどだ。
それでもボクはなおも呟く。「光を、もっと光を!」
日が沈む。波打ち際に打ちつくす少年の影が長い。白昼の喧嘩は死に絶え、水と戯れる子供の声が、僅かに砂浜を過ぎる風に時おり運ばれてくるばかりだ。形容し難いほど水平線の彼方の空の美しさ。 「光を、もっと光を!」とまた呟くとき、思いもかけぬ彼方から、一番星がかすかな信号を送っているのに気付く。いつもの町、いつもの店、いつもの夜、いつもの顔、々、々。半分残されたコーラ、燃えつきたタバコ、響くロック、音、々、々。
天井から吊り下げられた裸電球を、そのむこうにまるで失った太陽があるかのように凝視するボク。
「光を、もっと光を!」の呟きのホロ苦さは、安タバコの吸い過ぎの所為か、それとも幾重にも積み重なった過ぎた季節の重さのゆえだろうか…。
13階段を登りきった死刑囚に白々しい朝の光が降り注ぐ。目隠しの布のそのむこうに、彼はどんなにも「光を、もっと光を!」と望んだことであろう。
死者の瞼は重い。それにも増して重いものはどこの世界の何処にあろう。
10数年前の6月の雨の夜に逝ってしまった少女の、ボリビヤの山中に消えたゲバラの名も無き戦場に散る名も無き兵士の……、数え切れないほど多くの死者の瞼の重み。
逝ってしまった太陽。それは本当に、あの海と共に逝ってしまったのだろうか。彼女が見つけたのは(永遠)だったのか?
キザと笑う君を、ボクは笑う。
何故かなら、君とて<光>を欲していることをボクは十分に承知しているからだ。
正月の特別料理の膳に載る餅を、茶番だと云って笑う獄中の反に、天が与える光は四角い窓からのほんの僅かばかりのおしきせの光だ。
それなのに彼は、その僅かな光で季節の移り変りを、時刻の動きを知ろうとする。その彼に、一体季節とは何なのか、そして時間とは?「もし、許されるとするならば…」の一語、これのボクがよく口にする言葉だ。そのくせ、ボクは知らない、その許してくれる誰かを。それは多分、死者でも、神でもないことは確かなのだが…。
けれどもそれでも、もし許されるならば、ボクは望む。、「光を、もっと光を!」。
そうなのだ、いまボクが望むもの、それはたったひとつ、<光>だ、それも<したたかなる光>なのだ。    
                     

小松 辰男

MOJO・WESTは色魔の集団なんだヨ。きっと!! それでも個人差があってHARD・BAKAとMILD・AHOがいる。
ROCKから流れでる色を追う色魔なのです。レコードから流れでる色を自分の色と混ぜて新しい色を見い出す。毎日違う色を追う時もあります。俺に合わない色はうけつけないが〇〇に俺が求めている色があると思っている。長い間、迷路に入り込んで黒い闇の中をさまよう時もある。助けを求めても誰も助けてくれない。一人っきりだなァと真実思う。
権戒にさからい、自由を求める男たちはそれだけで魅力的です。たとえばハンサムじゃなくても、あったかい思いやりにあふれた、やさしさがあれば、男はやっぱり魅力的です。やたらに女の尻を追っかけまわすよりは、男たちの世界に情熱をかたむける姿の方がよっぽど、セクシーです。と思いますが、じょうだんはさておいて、おなかすいたナァ。

デイビ

何をやったらよいのか分らず、苦しんでいる。何かツンとくるもの、自分自身の体内を、炎の様に燃えたたせるものは何か?
日常の生活が中途半端で不本意なものである限り、自己の望むものすらハッキリ分らない、だから種々のイベントに参加することにより、不安と倦怠を一瞬、忘れさせるのである。イベントが真のコミュニケーションの場になるのを求めて。

山之健司

ゆるやかな日のひかりを大切にする人達があふれる公園の午後。
娘達はかけ去って行く、あの午後のゆるやかな光がすべり落てくる岸べえ行きなさい。そこにあふれるのは、グリーンとオレンジとそしてバイオレットの風船達そして、その岸べで眠りなさい風のはしゃぎ声がBGMの様に聞こえて来るからそして水の流れる音が忘れかけてた事をも思いださせてくれるから、それから忘れずに風のはしゃぐうたごえに音を澄ましてごらんきっと彼等はうたってる。
ぼくたちは自然。彼等をぼくたちは裏切らなかった、だけど彼等はばく達を裏切ってると。 

宮川一郎

世の中には、無数の回路があるもの、どうしても一つだけの回路を正しいと決めつける事が出来るのか。全てにNO!ということは止めて、全てにYES!といってもいいんじゃないかな。
どうせこの世はそう永くもない。ロックもいいけど、浪花節でもいい、酒でもいい、お金でもいい。 全てに執着することから解放されて、全てに心を開き、好きなようにやりたい。必要なことはレシーバーの感度のいいことです。

山形

私は平和などバカらしくて口に出来ません私の命さえ安全に守っていられれば。私の愛は愛する変人にしか反応しません。ROCKは美しくたくましくカッコイイ音にしかすぎません。私の自由は不自由の中にいることであり不自由を非難することです。私はビートルズだけを聞きます。人の幸せなんてどうでもいいことなのです私の幸せさえ守れれば。金はたくさんある方がいいにきまっている。寒い時や暑い時は大キライだし親なんてどうでもいいんだよ産んでさえくれたら。世界が私の為に動いてくれれば私は幸せなんです。
私を言う人剛主なんて良い人なんでしょう。

ツトム

舞台で進行している エキサイティングなロックのバイブレーション 観客は(参加している者は)感じる 変革だ創造だ 反戦だ 平和だ ある人は言う世の中変った人の心も変ったと
しかしあの強烈なドラムの響は、ショ竏茶gしているギターの叫びは 爆発している声帯は 決して論理なんかでないのだ ロックは思想 という意味の観念論や精神主義的なものでは断じてない ロックコンサートは 腹がへればメシを食い便をするのと同じ 単なる日常的な現象にすぎず 空気のように意識せずして 体内に入りこんでくる ただのモノであるはずだ ロックは ただのロックであることを原点にしない以上 ロック世代といわれる我々の自己の非主体という 便秘病状はなおらない ロックを感じて もろもろの汚物 悪臭のクソをたたき出しましょうゾ

坪内

考える事を、もうやめて、皆んなで感じあおうではないか、
ロック・フェスがそのいい場なんだ。

木村

今年になって妙に日本中のあちこちでロックミュージックが流れている。
そして、本格的ロック・グループが次々と来日している。最近はピンクフロイドまでが!!何如だか僕は、そこからロックの世界が感じられない。
テネシーワルツをロックと言えば、最近流行のロック人間に笑われるだろう。テネシーワルツはそれを聴いている人間によってロックにもなる。
大事な事は、ロック的な姿勢、ロック的な世界を心の内に持つ人間の存在である。

赤井 富士雄

MOJO WEST 資料館 機関紙抜粋 円山野音page5 8/22

MOJO WEST
円山公園・野外音楽堂