INTERNATIONAL ESSENERPOP & BLUES FESTlVAL’69
エッセン・ブルース・フェス
インターナショナル・POP&ブルース・フェスティバル’69
会場=ドイツ・エッセンのグルガハラスポーツセンター室内アイスホッケー場
入場料=初日・二日目110DM (約\1000)
三日目15DM (約\1500)
三日通し25DM (約\2500)
入場者数=12万人
協力者=Alexis Korner
プロデュサー=Fujio Akai
Light-Show=FantasiaLight-Circus London
ピンク・フロイド
ディープ・パープル
マディ・ウォーターズ
フリー
イエス
etc
MOJO WEST 資料館蔵 機関紙 円山野音 8/22号
text: 赤井 富士夫
1960年代のほとんどを、デュッセル・ドルフ、アムステルダムを中心とする北ヨーロッパにあって、18才から25才という青春時代を過ごして来た訳だが、“ロック”との出会いはどの様にしてあったか
私は、当時、美術学生として大学に在籍していたのだが、キャンバスに閉じ込められた絵、その他諸々の美術館に飾られる“芸術作品”なるものに非常に反発を感じていた。世界中に芸術運動として、ENVIRONMENT・ART(環境芸術)POP・ART、CONCEPTUAL・ART(概念芸術)等の考え方が盛んであった時に、私達若者は、もっと日常の生活感覚に訴えて来る芸術なり、運動なりを求めていたのである。
当時、ビートルズはアメリカ公演を最後に、演奏活動を止め、アップルを中心として、大きな芸術運動を行い始めていた。私達も、そうした影響の下で、GREENCOMPANY というグループを結成した。それは、あらゆるジャンルに渡ってのクリエター達を、トータルに組織し、コーディネイトして創作活動を行なおうとしていたのである。
そして当時の若者は興味ある者、そうでない者も、次第にロック的なものに影響されかかわって行かねばならないという時代でもあったと思う、それは、ビートルズが、ある意味で世界の若者の思想なり文化なりを、ロックを通じて広めていった事からも解る。
当時、ヨーロッパの若者の心を一番とらえていたのがロックであったのです。
以上の様な背景から、私も、知らず知らずの中にロックを演奏し、聞いたりしていたのだが、しかし、一番正確な事は、私はもともと音楽を非常に好きであったという事だと思う。
正確な話、私は当時、ロックという概念もなかったし、言葉すら知らなかった。一番、新しくて、共感出来る好きな音楽としてあっただけである。しかしそれは全ての人について言える事で、始めっからロックの意味は云々……という様な事からロックにかかわっていくという事はうそだと思う。今日でも私は、ロックについて云々という様な事よりも、それを聞いたり演奏したりして楽しむ事が一番であると思っている。
具体的に、どの様な活動でロックとかかわっていたか
最初、私自身がロック・バンドを作ってクラブ等で演奏していた時もあったが、後に、マイクロバスに楽器類や、プレイヤーを積んでヨーロッパ各地をキャラバンした。
ハンブルグのスタークラブ、フランクフルト、ミュンヘン、デュッセル・ドルフ、アムステルダム、大学のフェスティバル、その他パリベルギた。
約3年間、そうしたキャラバン活動をやり、最終的には、1969年10月ドイツのエッセンに於る3日間のインターナショナル、POP&ブルース・フェスティバルをプロデュースする事となった。
キャラバン活動といっても赤井氏自身のやる事はバンドのマネージャーみたいな事だと聞いたが、そんな事をよく3年間も続けられたと思うが窶髏
やっている事と言えば、それはバンドの世話とか、会場の用意、会計、運転手といった難事ばっかりであった。
しかし、それは私にとって、大学の講義を聞いているよりも、もっと面白い事であったし充分楽しんでやっていた。
あえて行為に理由づける必要はないと思うが、当時私は、その行為をもって芸術的なな生活とみなしていたかも知れない。少なくとも芸術とはそんなものだという事位は思っていた。
いわゆる、体制的な、スクウェアな世界え、反社会的な若者の集団を置いた時に起る、いろいろな現象が面白かったのだ。
私は、ロックについて日本で今日言われる様な、諸々の意味は少しも意識していなかったが、ロックの持つ大きなインパクトは感じていた様だ。
1969年10月には、POP&ブルース・フェスティバルという大きなイベントをプロデュースした時、日本ではロック、イベントを催するには資金とか、サウンド・システムとかの問題があると思うが、そうした問題をどう処理出来たか
資金については、どこでも非常に困難な点である。しかし、レコード会社は日本に比べて、はるかに協力的であったし、私達はすごくラッキーで、遺産を受け継いだ25才の友人を皆なで口説いて60,000DMのお金を出資させる事が出来た。
サウンド・システムは、マーシャル社のアンプとスピーァを40台づつレンタルで借り、それに付き添うミックス・マン(技術者)が二人来た。しかし、ヨーロッパでは、どのバンドもほとんど完璧に近いサウンド・システムを所有しているから、その点、常にある程度の満足出来る音を聞かせる。
音に関しては、向うのミュージシャン達は非常に厳しい考えを持っている様だ。
という事は、向うのミュージシャンは、それだけの楽器類を買える位の経済力を皆んな持っているのか窶髏
ヨーロッパでも、音楽だけをやって、楽器類をそろえる稼ぎは、一流のバンドなら別だが、普通のバンドでは無理である。皆んな、肉体労働なりの何か他の事でお金を貯めて買うようだ。持論コマーシャルな演奏で多額のお金を手に入れる事は可能なクラブ等が多くあるが、大程はそういった所の演奏を嫌っていた。
そうして、最低でも500万円位の金をサウンド・システムに掛けていた様だ、ほとんどが月賦で仕払っているので途中で仕払不能になり潰れてしまったバンドも多い。楽器類の盗難も多かった。
しかし、プロのバンドになるとレコードの印税等が入って経済的に非常に恵まれるようになる。フェスティバルの当日、ピンク・フロイドがバカーと大きなステンレスのトレモノを満載したアンプ、スピーカー、楽器等と、ミックスマンを連れ乗り込んで来た時は、ビックリした。
ロックと金について………。
日本ではロックに関係しているお金についていろいろと問題にされているが、例えばプロダクションとか企業によって、ロックが商業化され、その純粋性が歪められるとかいった事について、ヨーロッパではどうだったか
勿論、ヨーロッパでは日本以上に、ロックを扱う大企業が多くあり、ほとんどのバンドはそうしたプロダクションなり、レコード会社と契約している。
しかし、向うでは、非常にミュージシャンの立場が確立しているので、レコーディングの時、演奏の時等の姿勢は、ミュージシャンの云う様にやらないと企業も商売にならないという状況と、ミュージシャン自身の姿勢がしっかりしているという事から自然にそうなっているのだと思う。
向うでも、レコードだからコマーシャル物も入れて、生演奏だから本物を聞かそう等という二面性は持ってはいるが、それは別にロックに限らず仕方のない事だろう。
やはり一番問題とされるのは音楽の良し悪しで、ミュージシャンやそれを扱う人間が、ロックによってお金を儲けたとかいう事は、日本で歌謡曲で儲けたという事と同じ様にしか語られない。
ロックもあるし………という感じなのだな。回りにはロックもあるし、他にいろんなロック的な若者の文化がある。「若者はロックだ!!」というぐあいに別に固執する必要がないからそれについてヒステリックなる者も居ない。要するに音楽としてのロックという事を楽しんでいる様だ。
だから、音楽評論家は居るが、ロックはこうだ、ああだというロック説明家的評論家は居ない。ロックは若者の生活の一部になっているのだから、例えば、メシのうまいまずいを言う奴はい居ても、メシの食い方はこうあるべきだと言う奴は居ない。食いたい様に食えばよいし、お金も必要だし、メシを作ってお金を儲ける事も良い事だし、云々という事なのだ。
日本の様にロックというものが浮いた存在で、ロックこそ若者の生活意識を……、変革を……という様に取り上げられると何かもう音楽として聞いていられない様な苦しさを感じてしまう訳で……。
そう言えば、私は向うに居る時ROCKという言葉を使った事がなかった、皆んなFREE POPと言っていた。そんなところにもロックを取り巻く情況の違いがあるのかも知れない。
それではロックの社会性についてどう考えるか窶髏
勿論、先にも言った様にロックが体制の社会に対する衝撃力といった力を持っている事は大事だと思う。しかし、それのみが先行されて、音楽としてのロックを楽しむ事を忘れたら何の意味も持たなくなるのではないだろうか。
そして、ロックはすでにロック的世界の開示という事を果した。次はその世界を大きく広める事に今後の方向があると思う。
フェスティバルをやるまでと当日の状態は窶髏
まず前売券が当日になるまで全々売れなかった。当日の一週間前からヒッチでやって来たヨーロッパ中の若者がオフィスの前で寝袋やテントで一ぱいになった時には、我々は大喜びやら、ビビッたりやらだった。
汽車を2列車でチャーターしたのが、バス、ヒッチハイク等で来た者がほとんどであった。帰りのトランスポーが不備であったため、最終日が過ぎても彼らは街中にゴロゴロして、駅やら街角で小さな音楽会を開いていた。そうした出来事は街中がロック・フェスティバルの会場になったみたいで面白いムードであった。
当日はキャパシティ8,000人のアイスホッケースタジアムに、三日間で12万人だから一日4万人位の入場者があったわけで、ギュー茶Mュー窒フ超満員であった。会場に入れなかった者は、スタジアムの回りでテントを張り寝起きしていた。
何んと言っても最終日の明け方、ピンクフロイドの演奏が最高の盛り上りだったと思う。数日来の疲労と、焚き込められた線香の臭い、汗の臭い、それにストーン、こうなると人間不思議に自我がなくなって、拒否する力が失せて 受動的に何んでも受け入れる様になる。何万人もの人間がこうした一種の幻覚集団で、場内一ぱい一寸先も見えない位にスモッグマシンの煙がたちこめられた会場にピンク・フロイドのサウンドが響いた時にはあたかもトリックだった。