元号雑感
~元号は文化である~
令和改元の喧騒もそろそろ終りかと思うのだが、相も変わらず誰も強制していないのに「強制されないことを望む」とか「今時使う人は少ない」とか「国際性がない」とか、判で押したような「意見」が出てきてご愛嬌である。
しかし、だいたい全世代を通して80%ほどの人が日常生活ではキリスト暦(日本では西暦とも言う)を使うというアンケート結果が出ているのだから、誰も強制などしていないのは明らかである。
さらに「今時使う人は少ない」からこそ「強制されていない」ことの証明になるわけで、この2つの「意見」は元号に対するクレームとしては同時に成立しないと思う。
だいたい「元号の強制に反対」と言う人たちはキリスト暦の強制をしているのではないか。元号を使う自由を奪うのが自由と民主主義なのか。
元号でもキリスト暦でも好きな方を使ってくださいというのと、元号を廃止してキリスト暦しか使えませんというのとでは、どちらのほうが自由なのだ。2つにひとつの選択肢があるのと、そもそもひとつしかなくて選択できないのとなら、選択の自由があるほうこそ「自由と民主主義」だろう。
国際性がないというのもおかしい。
だいたいキリスト教国はキリスト暦、イスラム圏ならイスラム暦、イスラエルならユダヤ暦だし、仏教国なら仏暦である。ならば日本は元号でよいのである。キリスト教が国教でもない日本がキリスト暦だけにするか?
どの国にもそれぞれの文化と風俗習慣がある。どれが上でどれが下ということはない。先進国であろうが途上国であろうがそれぞれの文化と風俗習慣を認め合えば良いだけのこと。東本願寺のスローガンではないが「ばらばらでいっしょ」なのである。
ところで、およそ80%の人が日常的にはキリスト暦を使っているからといって、日本人の8割が元号に反対しているわけではない。このところは押さえておかねばならない。日常的に使うことはないけれど元号はあっていい、という人は多い。
で、日常的に元号を使うという人はどの世代でも20%弱だが、世代別で日常的に元号を使う人の割合が一番多いのが20代である。ちょっと意外だが2位の60代より僅かに多い。まあ、小数点以下の微々たる差でしかないので何時逆転するか分からないけれど。
何はともあれ、日本には選択の自由があるのだから元号を使おうがキリスト暦を使おうが自由なのだが、元号反対とお見受けする人たちが自分たちの意に染まないからとキリスト暦を使うのは勝手なのだが、何故かどういうわけか、これまた自分たちの都合で元号を使うことがある。
平成不況。
こういうネガティヴなことにだけは元号をお使いになるわけだ。
元号反対なら
世紀末不況
と言えばどうかね。そこまで徹底すれば立派だと思う。
【言っておきたい古都がある・336】