四千年の知恵(その7)
~今も生きる富国強兵の伝統~
富国強兵。
これこそ今の中国も目指している、正に四千年の知恵である。
春秋時代の末期から戦国時代になると、各国間の戦いも日常的になってきて、うかうかしていると国が滅んでしまう。そこで、富国強兵をやる。
富国強兵で必死になると、ユニークなエピソードも伝えられている。
たとえば、趙の武霊王は自国の軍隊を強くするために騎馬遊牧民族の戦法を導入した(キリスト暦前309年)。
基本的に中国の戦法は歩兵か戦車を使う。馬にまたがることは無い。そもそも、中国人の服はゆったりしていて袖は袂が広く、裾は足を大きく広げることが出来ない。乗馬に適していないのである。
しかし、遊牧民の騎馬戦術は機動力があって強いから武霊王はこれを取り入れたかった。そこでまず、服装の改革をしたと。
貴族たちに遊牧民の服装をさせようとしたわけですね。
ところが、これが貴族たちの猛反対に合った。何故かと言うと、遊牧民のような野蛮人の服は着たくないということ。
遊牧民が着ていた服は基本的に今の私たちと同じで、馬にまたがるように足をガバッと広げられるズボン。弓を引きやすいように袖も真っ直ぐな筒袖。われわれが今着ている服はヨーロッパから来たが遊牧文化起源のものである。で、これは当時の中国人にとっては野蛮人の服なのであった。
結局、武霊王は貴族たちの反対を押し切って改革をした。「胡服騎射の採用」という。誇り高い中国文明の人に遊牧民の真似をさせた。
それでどうなったか。
富国強兵が達成された。とにかく軍が強くなった。次々と領土が広がり、ついには内モンゴルにまで達した。
わが国の「蒙古来襲」どころではない。蒙古のほうが来襲されてしまった。
それほど版図を広げたわけだが、最晩年は良くなかった。
キリスト暦前298年、武霊王はそれまで太子に立てていた公子章を廃し、公子何を太子に立てた後に位を譲ったが、自らは「主父」と名乗って実質的な権力を握り続けた。
キリスト暦前311年、武霊王は美女の夢を見て、その夢を回りに聞かせていた。すると、これを聞いた呉広と言う男が、自分の娘の孟姚が夢の美女とそっくりであると思って武霊王に献上した。武霊王は大いに喜んで孟姚を寵愛した。この孟姚が生んだ公子何が、後の恵文王である。
要するに、美人の側室が生んだ子が可愛かったので、それまで皇太子だった息子を廃して妾の子の方に付け替えてしまったと。
これはくすぶりますね。
キリスト暦前295年、武霊王は公子章が可愛そうになったのか、趙の北の代の君にしようと考えたが、これが却って公子章に恵文王に対しての反乱を決意させてしまう。
公子章は反乱を起こしたが、失敗して主父の元へと逃げ込み、主父はこれを匿った。恵文王側の李兌と公子成は主父の館を包囲し、公子章はその中で死ぬ。
ここで反乱は終わったわけだが、主父に対して兵を向けた格好となった李兌たちは後で主父に誅殺されることを恐れて包囲を続け、3ヶ月の包囲の後に主父・武霊王は餓死した。
胡服騎射という大改革により版図を広げた名君でも、女の色香に迷って王位の行く先を変えてしまうとロクな事にはならなかった。
最後は餓死ですよ。餓死。
それはそれとして、武霊王が富国強兵策として断行した事は、いたずらに軍備を増強するのではなく、旧習を改め新しいものを取り入れていくことであった。
絶対にブレてはいけない基本線さえ守れば、他の事では古い考え方を何時までも引っ張っていてはいけないのだな。
ところで、この話、どこかで似たようなことがなかったか?
そう、日本の明治維新。
日本人は明治になってそれまでの和服をやめて洋服にした。
軽いタッチで変わりましたね。
中国とはエライ違いです。
だって服装どころか、ヘアスタイルまで変えてしまったのですから。
凄いですね。「尊皇攘夷」と言っていた人たちが政権を取ったとたんに「文明開化」と言ってお雇い外国人を500人も受け入れたわけだから。
軽いタッチで宗旨替え。
富国強兵よりも厳格な日本の伝統ではあるまいか。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・347】