「後祭」は賑わいと活気に満ちていた
〜鴨川納涼床と祇園祭の関係〜
この連載の7回目「祇園祭の伝統と創生と再生・後編」で私は「『祇園祭の後祭は規模も小さく盛り上がらないから、時機に遅れて悔しい思いをすることを後の祭りと言う』との俗説があるがそれは間違い」と書いた。
その時は具体的な根拠を提示したわけではなかったが、今回、偶然に史料を見つけたので改めて「祇園祭の後祭りは盛り上がっていた」というお話をしたい。
京都で夏の風物詩といえば鴨川の床である。これは「江戸時代から続く」ものであることはテレビのニュースなどで紹介されているのでご存知の方も多いだろう。現在では川沿いの各店の床が清水の舞台の如く「お座敷」が外へせり出しているが、江戸時代は川の両岸と中州に床几を持ち出して座敷にしていたのである。
これを「四条河原納涼」と言っていた。『都林泉名勝図会』がその模様を2種類の版画付で紹介しているが、見世物小屋まで出ているほどの大盛況である。川岸から中州に仮の橋(というか板)を架けて行き来していたのが分る。
で、この「四条河原納涼」というのは祇園祭のお神輿がお旅所に移っている間に行われていたのである。
つまり祇園祭の前祭と後祭の間のイベントだったということだ。
明治以降、太陽暦が採用されてから巡行は前祭が7月17日、後祭が7月24日になったが、旧暦では6月7日と14日であった。1ヶ月早いような気がするが、時期的にはほぼ同じである。旧暦と新暦では日付が約1ヶ月ずれるのである。
本来は前祭の巡行が終ってお神輿がお旅所に移ってから河原に床が設置されたのだが、何時のころからか6月7日よりも前から床が出るようになった由。ひょっとしたら、これが宵山の始まりかもしれない。
この納涼は後祭の前夜が最も賑わったという。これは現在の巡行の前日が宵山と言われて最も賑わっているのと同じである。「クライマックスの巡行」の前夜が人出のピークになるわけだ。祇園祭の後祭はそれほどの賑わいを見せていたのである。誰だ? 「盛り上がらないから後の祭り」なんてデマを飛ばした奴は?
何はともあれ、江戸時代には祇園祭における2度の巡行と鴨川の納涼床は切っても切れない縁にあった。祇園祭あっての納涼床だったと言っても過言ではない。
もし、この納涼床が明治以後も祇園祭の「期間限定」だったならば、「後祭は盛り上がらない」というデマも無かったかもしれない。
しかし、明治になると、床を楽しむお客さんが増えたのか、7月から8月まで通して設置されるようになった。これで納涼床と祇園祭の結びつきが切れてしまったのである。
その後、明治25年(1892)には現在のような高床式が登場し、大正4年(1915)には京阪電車が三条まで延びたので左岸の床が無くなった。さらに治水工事の影響で川の流れが早くなったので床几式が禁止になる。
こうして高床式だけが残り、現在のスタイルに繋がっていくのである。
現在の鴨川納涼床は祇園祭の後祭の盛り上がりぶりを今に伝える貴重なイベントでもある。
手遅れになることや盛り上がらない事を「後の祭り」と言うのは祇園祭の後祭に由来する、などというデマを飛ばすのは今後一切やめてもらいたいものだ。
【言っておきたい古都がある・13】