伏見稲荷に闇はあるか?
〜商売繁盛の裏側〜
鎮座1300年にもなる伏見稲荷であるが、平安建都が1200年だったわけだから稲荷のほうが古いのである。
ただ、誤解の無いように言っておくと、平安建都1200年というのはこの地が都と定められて1200年という意味であって、それ以前に人が住んでいなかったわけではない。京都という土地そのものの歴史は縄文時代にまでさかのぼる。それはまた別の機会に書くとして、伏見稲荷である。
伏見稲荷鎮座の前にすでに藤森神社があった。きらびやかでゴージャスな稲荷に較べたらいかにも地味な藤森神社だが、こっちのほうが先輩なのだ。またこっちのほうが神社らしいともいえる。
1300年前の事、稲荷神社を建てるにあたり稲荷の関係者が藤森神社に出かけ「小さな祠を造りたいので数束の稲を置く場所をお借りできないものか?」と頼んだという。藤森神社は、いくら大きな稲束でも数束なら10坪もあればよいだろうと了解したらしい。
稲荷派の者は直ちに大きな稲束を持ち込むと、その束を開き稲わらを1本ずつ取り出し縦に線を描くように並べて稲荷の山を囲み「藤森さんから了解されたのだから」と、その中腹に社を建てたという。
1本ずつ縦に並べて山を囲むなんてインチキや! と藤森神社が憤慨しても後の祭り。
このため、藤森祭のとき、藤森神社の者が馬の上から「土地返しや!」と叫ぶと、稲荷からは「お留守!」と返したという。
今でも伏見稲荷の周辺に住む人は藤森神社の氏子になる由。
稲わらを1本ずつ縦に並べて。。。というのはフィクションかもしれない。しかし伝説というのはしばしば物語の形を取った歴史である。その中には真実が含まれていることが多い。
この稲わらのエピソードが語るものは、1300年前に伏見稲荷が藤森神社から土地を取得するに際して、何らかの不正な手段が用いられたという事だろう。事実を指摘して糾弾することが出来ないので頓知のような物語を作って後世に残したのである。
伏見稲荷のご利益はご存じの通り商売繁盛。ビジネスといえば駆け引きもある。流石、商売上手な神様だといえよう。
しかしこの昔話からすると、伏見稲荷は藤森神社から土地を「借りて」そのままということになる。まあ、もう時効になって所有権が移ってしまっているだろうが。
さて、有名な千本鳥居の他にも伏見稲荷に見所がたくさんある。
【東丸神社】ヒガシマルだから醤油が祀ってあるのかと思いがちだが、これは「あずままろ」と読む。荷田春満を祀っているのである。
【重軽石】奥の院の北側に背の低い石灯籠があり、その宝珠を「重くなれ」とか「軽くなれ」とか祈りながら両手で持ち上げる。祈ったとおりなら願いがかなうとか、あるいは「思ったよりも重かったら願いはかなわず、軽かったらかなう」とも。
【奴禰鳥居】三ノ峯の荷田社にある鳥居。中央の額束のところが交差合掌の形になっている珍しいもの。
【大八嶋社に社殿がない】玉垣だけでお社はない。火事で焼けてから再建されなかったそうである。
かつてこの前に石の三宝があって、それが重軽石とされていたときもあったとか。後にこの三宝は見えなくなった由。
つぶさに見ていくと、まだまだ新しい発見があるかもしれない。
もうひとつ。稲荷に伝わる話。
【消えるいなり寿司の怪】
「伏見稲荷でいなり寿司を持って稲荷山に登ると途中でいなり寿司が消える」というもの。
地元の人に尋ねてみると、「お使いの時でも途中で狐がつまんで食べる」のだそうである。
では、それを防ぐにはどうすればよいか。
地元の人曰く、「いなり寿司と一緒にマッチ箱(もちろん中身の入ったやつ)を1箱入れておけば大丈夫」とのこと。
何故マッチなのかは分からないが、狐だから火の出るものは苦手と言うことでしょうか。
【言っておきたい古都がある・12】