四千年の知恵(その9)
~言った事はやる政治家の流儀とは~
商鞅(しょうおう)という人は、ざっと2400年ほど前、衛の国の出身で、政治家志望なのだが中々自分の才能を認めてもらえない。
ある時、秦の国で人材を求めていると聞き出かけて行く。ふらっと出かけていっても外国出身なので秦の有力者に簡単に会えるわけではない。商鞅は色々なツテを頼って孝公に面会することができた。
孝公は商鞅を非常に気に入った。そして、今でいえば総理大臣にいきなり抜擢して政治を全面的に任せることにしたわけである。
しかし、新任の大臣の言うことなど誰も聞いてくれない。
そこでどうしたか。
秦の都にある市場は塀で囲われていて門がいくつかついていた。市場は民衆が集まるところだから政府の命令など国民への「お触れ」はこの市場の門の前に掲げられたらしい。
商鞅はこの市場の南門に材木を一本立てた。そして
「この材木を市場の北門に移した者に金十斤与える。大臣商鞅」
と触書を出した。みんなこの御触書を読んでワイワイ噂をするが、何か怪しい触書で、商鞅という男もどんな大臣だかわからない。へたなことをして罰せられてはかなわないので誰も材木を移したりはしない。
何日か経っても誰も動かさないので、商鞅は賞金を5倍の五十斤に上げた。金17キロくらい。
そうしたら、ようやく一人の男が材木を北門に移した。勇気があるのか金に目が眩んだのか。
早速その男は商鞅に呼ばれて、約束どおり金五十斤を賞金としてもらった。
これであっという間に商鞅の評判は広まったのである。新しく来た大臣の商鞅は言ったことはやるぞと。「決める政治」や「言った事は守る政治」を実践したわけである。
貴族たちもひとまずは彼にやらせるしかないと思った。
それでも法律を守らないやつはいるもので、あろうことか孝公の太子(後の恵文王)が法を破った。皇太子がそんなことしたら、あきまへんがな。
商鞅は皇太子の処罰を孝公に願い出た。身分なんて関係ないのである。
さすがに孝公は自分の子供を直接罰することはできないので、後見役の公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への入墨刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑にした。
このために公子虔・公孫賈の両人は恥ずかしくて外出しなくなった。
この後は全ての人が法を守ったという。
皇太子の側近の鼻を削いだり、おでこに入墨したり、さらには死刑にしたり。中々えげつない。
今の日本に置き換えたら、総理大臣を罰することは出来ないので、副総理の鼻を削ぎ、幹事長のおでこに入墨をし、官房長官を死刑にすることになる。黒枠の額の中に入るのは元号の文字ではなく、ご本人の写真になるわけだ。しかしまあ、日本が中国でなくてよかった、ということになる。みんな安心だ。
こうして始まった商鞅の政治改革だが、これは「変法」と呼ばれる。
これによって耕地が拡大して戸数も増えるし、国家収入も増えた。
ただ、商鞅が皇太子の処罰を願いでたといっても、直接断罪なんて出来ないのは分かっていたのではないか。自分の政治改革の邪魔になりそうな皇太子側近を排除するため、あえて皇太子のスキャンダルを暴いたのではないのか。こんな穿った見方も出来るのではないかな。
しかし、現代中国の習近平さんも、逆らう相手の鼻が削げたら楽でしょうね。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・349】