珍無類、京都の大仏物語(その2・大仏受難)
〜大仏様の数奇な運命が始まる〜
前回で書いたように、秀吉が創った初代大仏は6丈3尺(19メートル)だった。奈良の大仏より大きい。しかも大仏殿は地上から最頂部まで45メートルあったという。
まさにその当時の最先端の技術を駆使して造った巨大建築物である。
京都駅ビル建設や京都ホテル(現京都ホテルオークラ)高層化ではかなり反対もあったが、実は京都に巨大な建物を建てるというのは昔からあったのである。
豊臣秀吉と言えば「大坂の人」のように思われるが、本当の本拠地は京都であった。方広寺大仏殿が権力の象徴であり、聚楽第が政治の中心。さらに伏見城も造った。淀城だって作ってるし。
その大仏殿があったのは現在の豊国神社である。北隣にひっそりと残る現在の方広寺、南隣の京都国立博物館もすべて境内の一部であった。
それどころか三十三間堂も境内に取り込まれ、千手堂と名を変えて方広寺の一部とされた。
こうして日本一の大仏が登場したのである。
文禄4年(1595)に豊臣秀吉は方広寺で僧侶を千人集めた「千僧供養」をやった。大仏は出来る大法要はやる、秀吉も得意の絶頂だっただろう。
ところが、この時からわずか1年後、「想定外」の事態が起きる。
慶長元年閏7月13日子の刻。
突如として京都の地面がグラグラッと揺れた!
慶長の京都大地震。
この京都大地震で大仏殿が倒壊、京都の大仏様も潰れてしまった。
前年に千僧供養なんてやって、坊主が1000人も寄ってご利益のある奴は1人もいなかったのか?
ちなみにこの時に伏見城も潰れている。
この地震が豊臣家にとって「ケチのつき始め」だったと言っても過言ではないだろう。
天正年間は豊臣家勃興の20年、慶長年間は豊臣家凋落の20年。方広寺大仏殿完成と慶長大地震を頂点にして見事に逆V字型の年代記になってしまうのである。
さて、もちろん秀吉はすぐに大仏再建の指示を出した。しかし秀吉自身は大仏の再建を見ることなく、慶長3年に亡くなる。
こうして再建事業は息子の秀頼に引き継がれたのである。
そしてどうなったかは来週に続く。
【言っておきたい古都がある・18】