四千年の知恵(その8)
斉の宣王(キリスト暦前4世紀末)はやはり人材を集めまくる。学者であればどんどん召し抱えて都には学者街ができた。
都には稷門(しょくもん)という城門があってその近くに学者たちが集まって住んだので「稷下の学」という言葉が生まれたという。
学者たちは特に仕事があるわけではなくて、一日中ワイワイガヤガヤとフリーディスカッションをする。その中から良いアイデアがあれば斉の国政に反映された由。
こういう状況は野心のある人には(才能さえあれば)自分を売り込むチャンスである。生まれは関係ない、身分も関係ない、有能な人材だと認められれば高い地位について財産を蓄えることもできる。だからいろんな学問を身につけ、特技を持ち、諸国を遍歴して就職活動する政治家志望の連中がたくさん現れる。孔子とか孟子とか。
宣王の即位の年に魏が韓,趙と戦うと,宣王は魏の疲弊を待ってこれを攻めて三晋の地を平定。そのため斉の勢力は東方諸国中最大となった。
その経過は下記の如し。
韓の南稜が魏に伐たれた際、韓は斉に救いを求めてきた。宣王は、重臣たちに「すぐ救うか、ゆっくり救うか」を議論させた。
張丐は、「ゆっくり救えば、韓は挫けて魏に降りましょう。すぐ救うに越したことはありません」と主張。
田臣思は、「それはいけません。そもそも、韓・魏両軍が疲れぬうちに救いに出れば、こちらが韓にかわって魏に攻められ、逆に韓に指図を仰ぐことになるでしょう。そのうえ、魏には韓を破ろうという強い意思があります。韓は滅びるとなれば、必ず斉に泣きついて来るでしょう。そこで、密かに韓と親交を結び、そしてゆっくり魏の疲れに乗ずるようになされば、お国は重みを加え、利を得られ、御名は尊ばれることとなりましょう」と主張。
宣王は田の進言を受け入れ、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。
韓は、斉はこっちの味方と一人合点し、5度戦ったが5度とも敗れ、斉に泣きついて来た。そこで斉は軍を派遣し、5度の戦いで疲弊していた魏を討ち、馬稜で散々に打ち破った。
こうして魏は敗れ、韓は弱まり、韓と魏は田嬰のとりもちで、北面して宣王に朝貢した。
さらに宣王は孟子も厚遇し、その助言で燕を制圧したこともあった。しかし、この燕制圧策は結果的には失敗し、燕に大きな恨みを植えつけることになってしまった。
そういつも上手くいくとは限らない。
さて、これが中国四千年の知恵である。
富国強兵といってもいたずらに軍備を増強するのではなく、まず人材を集める。
軍備が整っても安易には攻めない。
同盟で釣っておいて争うもの同士が疲れ果てたところで同盟国の「救援」に行って、両方とも下してしまう。
流石である。
ところで、孟子の助言による戦いは結果的には失敗であった。そしてあの有名な孔子も宰相になった時は失敗している。日本では『論語』と『孟子』は四書五経の中に入って「有難い」とされているけど。
孔子と孟子、二人とも言ってる事は立派だったけど、実践すると駄目だった。
大丈夫か? 今の日本の政治家でもこんなのがいないか?
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・348】