再び、小学校で英語を教えるのは止めよ、という話。
~次期学習指導要領の基本方針を撤回せよ~
2年ほど前、私はこの連載で「小学校で英語を教えるのは止めよ、という話」を3回に分けて寄稿した。その後、この問題は深く静かに潜行していたようで、先日、ついに文部科学省の諮問機関「中央教育審議会」(中教審)が小学校の英語に関して2018年度から先行して実施できるように準備するよう提言した。
私はこの提言を基本方針から撤回せよと提言する。いや、小学校で英語を教えるのを止めよと、何度でも言う。
言うべきことは前稿(このコラムの第69回・70回・71回)に書き尽くしたのだが、私はTPPもカジノ法案も反対しないが小学校で英語を教えるのは反対するので何度でも書く。
(注)本稿の中には現代の良識に照らして不穏当と思われる言葉が散見するかもしれません。しかし、それは対象を的確に表現するための手段としてやむを得ないものとご理解賜れば幸いです。
さて、そもそも中教審は「読解力の向上」を喫緊の課題であると認めているではないか。それなのに何故、英語なのか。まして中教審は答申の中で
「国語を中心に語彙を増やす指導や読書活動を充実させるよう」
求めているのである。それなら小学校での英語をやめて、その時間に読解力の向上を当てればよいはずである。
そもそも中教審が出した国語の力に対する答申の背景になっているのは、今年の12月6日に公表された国際学術調査で日本の15歳の子供の読解力順位が前回の4位から8位に落ちたからだ。ここに危機感を持ってくれたのはよいのだが、ならば英語を見直せよと言いたい。
さらに中教審は
「主権者教育や道徳といったテーマについて、保護者と子供が新聞などを活用して一緒に話し合って学校での学びを深める」
という活動を推奨している。「いかにも」という綺麗事なのだが、この話し合いの基礎になるのも日本語である。小学生の段階ではこの日本語をもっと深く教育しなければならない。
小学校で英語を教えるのは「グローバル化する社会に対応するため」だそうだが、前回にも書いたと思うがグローバル化(何故か国際化とか世界化とは言わないようだが)に対応するのは英語力だけではない。今なら中国語力や韓国語力も必須ではないか。
そもそも、かつては「国際化」と言っていたのが「グローバル化」と言われるようになったのはアメリカが「グローバル・スタンダード」というのを言い出してからである。
ところが、この「グローバル・スタンダード」というのは、ついうっかりすると「世界基準」と思いがちだが、当時、そんな世界基準はなかった。「グローバル・スタンダード」というのは実は「アメリカン・スタンダード」だったのである。ただ、正直にそう言ってしまうと「何でアメリカの基準に従わねばならぬのか」という文句が出るので、あえて「グローバル・スタンダード」とした。ここにアメリカ人の知恵がある。もっとも、このちゃちなトリックに引っ掛かったのは日本人だけというのが実態かもしれないのだが。
グローバル化とはアメリカ化なのであった。
外国からの観光者をどんどん受け入れて日本文化を理解してもらうと言いながら、日本をアメリカ化してどうする。
日本人が国際化するというのはたとえば、中共相手に「尖閣諸島は日本の領土」と中国語で議論できる人や、韓国相手に「慰安婦問題は解決済み」というのを韓国語で議論できる人が現れることである。英語に偏ってはいけない。英語ができるのが国際化などではない。
もっとも、今、小学校での英語教育必修を狙っている人たちは国際化ではなくグローバル化(=アメリカ化)が目的だとすれば、こんな批判は的外れになつてしまうのだが。
いつまでもしつこく言う。小学校で英語を教えるのは止めよ。
今ならまだ間に合う。
今年の流行語大賞は「保育園落ちた、日本死ね」だったが、私はそのパロディで、「小学校で英語? アホども死ね」と言う。
【言っておきたい古都がある・217】