金運も京都でもらおう
銭洗い弁天では何故お金を洗うのか?
銭洗い弁天といえば鎌倉が有名だが、京都にもある。場所は六波羅蜜寺。
鎌倉のは私も一度行ったが、洞窟みたいなところを入って行って弁財天の前に行くので演出効果がある。
それに比べると六波羅蜜寺のは。。。という気になってしまうのだが、実は六波羅蜜寺の銭洗い弁天も鎌倉のと同じぐらい古いのである。ただ、弁天像が近年リニューアルされたので銭洗い弁天そのものが新しいと勘違いしている人がいるけれど、実はもっと由緒がある。
江戸時代の京都観光ガイドブックである『都名所図会』は安永9年(1780)の刊行だが、この本に載っている六波羅蜜寺の境内図(今で言うイラスト)には、ちゃんと現在と同じ位置に弁天社が描かれている。江戸時代中期にはもうあったのだ。
それを何をトチ狂ったのか先日、「この弁天様は古い」と説明した縁起物授与所のひとに、某社の雲助が「そんなことあるけえ!」と暴言を吐いた由。
10年ほど前にも雲助が2人、警察(七条署)に捕まっているが、十年一昔、また劣化して来ているのかな。
何はともあれ、六波羅蜜寺の銭洗い弁天、鎌倉とは大きな違いがある。
え? 「ここはお金は家に仕舞っておくと教えるけど、鎌倉は使えと教える」ですか? いえいえ、もっと大きな違いがあります。
鎌倉の銭洗い弁天は100円払ってザルを貸してもらいますが、六波羅蜜寺はタダ!
自由に洗えるのだ。
ところで、私もお金を洗いました。洗ったお金は持って帰る。時々間違えてお賽銭に入れてしまう人がいるけれど、お賽銭は別のお金でね。もちろん、2枚洗って1枚は持って帰り、もう1枚はお賽銭というのはアリである。
たまに欲張ってお札を洗う人もいるが、決して墨を乾かすためのドライヤーでお札を乾かさないようにお願いしたい。それはドライヤーの使用目的に関する大きな勘違いである。
近年はキャッシュカードを洗う人もいる。私も見たことがあるが、確かに合理的といえば合理的だろう。弁天様もビックリかもしれないが。
ちなみに、私は洗ったお金をお守りにしてもらった。500円也。洗ったお金そのものは紙に包んでもらい家に置いておく。代わりに別のお守りを身につけるのである。もっとも、私は鞄に付けているが。
ご利益ですか?
大金がたまった訳ではないが、今のご時世でも食い詰めることなく仕事してます。
ところで、『都名所図会』のイラストを見ると、六波羅蜜寺の本堂は今と同じだというのが良く分る。これって、感動ものですよ。
『都名所図会』では弁天社のすぐ隣に阿古屋塚がある。現在では本堂の反対側に移転しているが。
弁天社も本殿に向かって左手にそこそこ大きい弁天堂が新しく出来ている。それでも昔の位置に銭洗い弁天としても残っているのは何故か。
阿古屋塚は鎌倉時代に出来た「新しい」物なのに、弁天社はそれよりも古く、おそらく創建当時から今の位置にあったため新しい弁天堂が出来てからも「本来の正しい位置」に弁天様を残したのだろう。
鎌倉の銭洗い弁天は源頼朝が由来だから鎌倉時代。六波羅蜜寺の創建は平安初期に遡るので、鎌倉よりもこちらの弁天社のほうが古いのではなかろうか。
六波羅蜜寺の銭洗い弁天、疎かには出来ませんぞ。
しかし、何故お金を洗うのだろうか。
私の解釈は「禊」である。
本来、禊(みそぎ)というのは自分の体を洗うのだが、時代が下がってくると簡略化されて神社でも手を洗うだけで良いことになった。
そこで、金運を祈願する時、誰かが自分の体の代わりにお金を洗って禊としたと。
そこから広まったのではないか。
さらにもう一歩、踏み込もう。
お金を洗って金運のご利益が叶うのなら、同じように心も洗えば貴方の人生も良くなりますよということ。
お金を洗うという目先のことだけでなく、その背後にあるものを感じ取っていただきたいものであります。
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