徒然草の知恵(完結編)
~極楽往生は往生しまっせ~
唐突に最後を迎える『徒然草』に学ぶ話シリーズ。最終話は法然上人と極楽往生について。
第39段で兼好法師はある人が法然上人に「念仏の最中に眠くなったらどうしたらよいか」と尋ねた時、法然の答。
「目の醒めたらんほど念仏し給え」
目の醒めている時に念仏せよ、というのは「無理しなくても良い」ということである。眠くなったら寝れば良いと。「念仏の最中に眠くなるなんて、修行が足らない!」なんて野暮なことは言わないのですよ、法然さんは。
さらに法然の言葉。
「往生は一定と思えば一定、不定と思えば不定なり」
極楽往生というのは「きっと出来る」と思えば出来るし、「出来るかどうか分からない」と思えば不確かなものになる。普通、新興宗教の教祖はこういう時「出来るのだあ~!」と言うのではないだろうか。
そして極めつけの言葉。
「疑いながらも念仏すれば往生す」
「ホンマにこれで極楽往生出来るんかいな」と疑いながらでも念仏すれば極楽往生できる!
これは有難い!!
普通、新興宗教の教祖は「疑うな! 信じよ!」と言うのではないか。
でも法然さんはそんな上から目線の命令形は使わない。「信ずる者は救われる」ではなく、「信ずる者も疑う者も救われる」と。こりゃあ皆信じたくなります。
こうやって法然さんは信者を獲得して行ったのだな。
鎌倉時代というのは「伝統宗教が新興宗教であった時代」だという視点で見れば、法然さんも日蓮さんも親鸞さんもまた違った人に見えてくる。結構ツッコミどころがあったりして。
つまり、教科書で習う「鎌倉新仏教」というのは、鎌倉時代にできた仏教系新興宗教であると。それが800年続いたから「伝統宗教」になったのである。
そうなると、「教祖が捕まって刑罰を受ける」というのも新興宗教によくあること。ただ日本の場合、どの教祖の皆さんも「弾圧」されたわりには数年後にはシャバに戻って来て社会復帰しているけど。。。中には「弾圧」ではなく、法に触れることをしたからそれに見合う罰を受けただけのケースもあるのでは?
何はともあれ、極楽往生の話にツッコミを入れてみよう。
浄土宗における「あの世行き」の話を読んでみた。大意は次のとおり。
ある旅人が旅の途中で盗賊に会った。つかまったら殺されるので逃げると、大きな河に突き当たった。
その河は一方で火が燃え盛り、もう一方では荒波が逆巻いている。そのあまりの恐ろしさに旅人は身動きが出来なくなってしまった。
ところが、その火と水の間に、細くて白い道があった。それを渡れば助かるかもしれないが、あまりに細い道なので、まるで綱渡りのようであり、どっちかに落ちるかもしれない。結局、旅人は脚がすくんでしまった。
そこにお釈迦様の声がして、「この道を走れ。向こうに阿弥陀さんが待っている」
と言った。
さらに阿弥陀さんの声もして「こっちへ来い」
と言った。
それを信じて走ったら極楽に行けた。
とまあ、こんな話である。これが二河白道というものだと。
ここでちょっと引っかかる。
この旅人はお釈迦さんと阿弥陀さんの言葉を信じて細くて白い道を走ったので「極楽に行けた」のである。「極楽に行けた」ということは、死んだということ。要するに、結局この旅人は盗賊に殺されてしまったのではないか。
まあ、殺されても極楽に行かしてもらえればそれで文句を言う筋合いの物ではないのだが……。やっぱり、もうちょっと長生きしたいし……。生きたまま助けていただくわけには行かなかったのかな……と。
こうなると、盗賊に会おうが通り魔に会おうが「自分は極楽に行けるから大丈夫」ということか。
これで納得すべきかどうか。う~ん。往生しまっせ。
まあ浄土宗のプロのお坊さんがどう言われるかは分からないが、お盆も近いことなので、ちょっと俎上に上げてみた次第。
で、『徒然草』ネタは今回で終了。どうして突然に終わるかというと、新聞広告に『徒然草』をネタにした面白そうな本が出たから。もちろん私とは視点が違いますが、同じようなことをやっても大して面白くないのでここで中締めにします。
と、いうことで、次回は8月15日のアップになるはずなので、それにちなんだネタで面白おかしく真面目に行く予定。乞うご期待。
【言っておきたい古都がある・247】