徒然草の知恵(その2)
~世の中は昔から悪いまま~
鎌倉時代のエッセイスト・吉田兼好の名著『徒然草』を読んでみると、世の中は今も昔も大して変わっていないというのがよく分かる。というのが今回の話なのだが、さて、いつの時代でも「今が最高」とは中々言ってもらえないようである。
「何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ」(第22段)
「静かに思えば、万(よろず)に、過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき」(第29段)
要するに、「昔は良かった。今はなあ。。。」という事である。現代でもこんなことを言う人はたくさんいる。つまり、何時の時代でも「昔は良かった」し「今はダメ」ということだ。だから時代が下がれば「ダメ」だったはずの現代のことを「昔は良かった」と評価してくれる人が現れるということになる。でも、それならリアルタイムで評価してほしい。
しかし、こうなると世の中はどんどん悪くなる一方なのだろうか。いや、「現代」は悪くなりつつ、「過去」は良くなっていくわけである。こりゃまたどういう訳か。
そこで目先を変えて外国の例を調べてみると、以下の様な言葉があった。
「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は目に余る」
◎古代ギリシャの哲学者ソクラテスは言っている。
「子供は暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても、起立もしない。親にはふてくされ、客の前でも騒ぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師にさからう」
◎同じく古代ギリシャの哲学者プラトンも言っている。
「最近の若者は何だ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街で暴れる。道徳心のかけらも無い。こままだと、どうなる」
人の世は何千年たっても変っていないようだな。本当に「世も末」ならば、とっくの昔に人類は滅亡していなければおかしいのだが。。。それとも「世も末」のまま、何千年も経ってしまったのか。
何はともあれ、今の世の中もあまり悲観的に考える必要は無いようで、「終末思想」であろうが「末法思想」であろうがその「末」が延々と続くのである。終らない。つまり、人間の世界は常に「世も末」なのである。
で、この「世も末」=「悪い世の中」を良くしようという人たちも現れるのだが、あまり良くなったためしがない。ソビエト連邦という国もなくなってしまったし。40年か50年前は北朝鮮が「地上の楽園」だったわけだし。「良い話」は真に受けないほうが良い。
選挙となると「関心を持とう」とか色々言われるけれど、国民が政治に無関心だったから国が滅んだという実例はあるのか?
ない。
あったら教えて欲しい。
むしろ政治に関心を持ちすぎるほうが危ないのではないか。
ヒトラーは政権を取るのにワイマール憲法に違反することは何もしていない。正当な選挙で国民の熱狂のうちに政権を託されたのではないのか。ムッソリーニだってそうではないか。今も大して変わっていない。あいつもダメ、こいつもダメ、でもこの人なら何かやってくれそうだと浮かれて託して何かよく成った実例があるか。
だから
国を危うくするのは政治に対する(過度の)期待である。
無関心こそ安全で安心なのである。
故に、選挙なんてみんなで棄権しよう!
そして総理大臣や政権党の悪口を言いながら「昔はよかった」と懐かしんでいれば世の中は「悪いまま」で平和に続いていくのである。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・242】
『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。
序段を含めて244段。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学の一に位置づけられる。
兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。