徒然草の知恵(その1)
~男は色好みのほうが良い~
さて、私はこの連載の213回目で『万葉集』に基づいて「女はグラマー、男はイケ面」というのが奈良時代から続く真理だと考察したが、今度は『徒然草』を典拠としてどんな男が「良い男か」を見てみよう。
万葉の時代から女性は巨乳でウエストがギュッと締っているのが良いのだというのが真理である。それでは男は?
もちろん、『万葉集』では外見は「イケ面」が良いと言っているのだが、内面はどうなのだろうか。そこで登場するのが吉田兼好である。鎌倉時代のエッセイ集『徒然草』は冒頭で男のライフスタイルを指南している。
では、兼好法師はどのような男が「良い男」だと認定しているのだろうか。
「手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ」(第1段)
もう第1段から来てますね。文字を書くのはそこそこ上手くて話が面白い。そして「いえいえ、私はいたって不調法で」などと言いながらちゃんとお酒を飲む男が良いと。
昔から「ノミニケーション」と言って、酒席で顔つなぎをしておくのが後々のためになる。みなさん、座を盛り上げてお酒をちゃんと飲む男こそが理想の男なのですよ。しっかり飲みましょう。飲まいでか!
これだけではない。兼好法師は小指の問題(女性関係)にも言及する。
「万(よろず)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきの当(そこ)なき心地ぞすべき」(第3段)
色んな分野で優れていても、女好きでない奴はダメだと。立派な杯でも底が抜けていたらお酒が飲めないように、色好みではない男はダメだと。みなさん、もう誰にも「スケベ」とは言わせない。「好き」なのが良い男の条件なのである。兼好法師がそう言っているのですから間違いない。太鼓判! 週刊誌か何かの巨乳のグラビアを見ていたら兼好先生に誉められるかもしれません。
そう、どこぞの役所の次官がプライベートな時間に自分のお金で綺麗なお姉さんが居る所に行っても問題ない。悪いどころかそれこそが「良い男」の良い男たる所以なのである。
但し、やりすぎてはいけない。
「ひたすらたはれたる方にはあらで、女にやすからず思われんこそ、あらまほしかるべきわざなれ」(第3段)
あんまり「みだら」ではいけませんと。女性に「軽い奴だ」と思われてはいけないと。この辺りの兼ね合いが大事である。「クールな女好き」を目指さねばならない。
どうですか? 兼好法師の教えを守れそうですか?
「酒飲みの女好き」が「良い男」になるのだが、兼好法師はさらに男のライフスタイルとしてどのぐらい生きるのが良いかも教えてくれている。
「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」(第7段)
わーっ、40歳になる前に死ぬのがいいと言っている! これはあんまりだあ! そんなに慌てなくてもいいのに。。。
長生きしてもろくな事は無いという事なのかな。
否、「酒飲みの女好き」な男が長生きしてもロクなことはない。あるいは、ロクなことはしない。だから早く死ねと?
昔から「美人薄命」と言うが、良い男も薄命でなければならないのだろうか。
でも、「悪い奴ほどよく眠る」という映画もあった。良い男というのは、惜しまれつつ若死にするのが美しいのか。そういえば、「憎まれっ子世にはばかる」という言葉もある。
長生きすると誘惑の機会も増える。だから「良い男」のまま早く死んでしまえと。これでその人は永遠に「良い男」なのである。
みなさん、目指しますか? 良い男。
が、しかし、ここで重要なことを記しておかねばならない。
兼好法師は弘安6年(1283)の生まれで文和元年(1352)の没である。
つまり
69歳まで生きた!!!
おい、吉田兼好! お前は他人には40歳になる前に死ねと言っておきながら自分は69歳まで生きてたのか! 言ってる事とやってる事がバラバラやないか!
それとも、評論家とか有識者とかエッセイストというのは発言に責任を持たなくても良いのか? もしくは、吉田兼好というのは実は良い人ではなかったのか? あるいは、いくら40歳になる前に死ねといっても、自殺するわけにはいかないから自然に任せたのか? それで長生きしたのか? 心身ともにしっかりしていたからか?
そうか、
健康法師だったのか。。。。。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・241】
『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。
序段を含めて244段。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学の一に位置づけられる。
兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。