論語の知恵(その2)
~孔子様でも匙を投げる人たち~
前回に引き続き『論語』の教えから面白いものを取り上げる。
孔子が「こんな奴は面倒みきれん」と匙を投げたのはどのような人たちだったか?
「自信過剰の上に正直さを欠き、田舎者でありながら素朴でなく、真面目そうに見えてその場限りの人間は、私も言いようを知らない」(泰伯第八201)
「顔色や態度だけはお高く構えているが、内心は気の小さいものは(中略)こそ泥のようなものだ」(陽貨第十七446)
「(さもしい者は)地位を得ないと何とかそれを手に入れようとし、柄にもなく地位を得ると今度はそれにしがみつく。そしてそれを失いそうになると、手段を選ばず(保身のために)どんなことでもやりかねない」(陽貨第十七449)
「昔のつむじ曲がりは潔癖だった。今のつむじ曲がりは放縦でデタラメだ。昔、プライドのある者は角があったが筋を通した。今の者は自惚れてプライドが高いだけで、すぐ怒るし理に背いて人と争う。昔の愚はお人好しの率直さで思うことをそのまま行ったが、今の愚は私利私欲に率直で偽りを行う」(陽貨第十七450)
「人の欠点を言いふらす者、劣っていることを棚に上げて優れている人を悪く言う者、勇気があっても礼儀を知らない者、決断力はあるが道理の分からない者」(陽貨第十七458)
「どうしたらいいか、どうしたらいいか、と言うばかりで自ら解決を求めないものは私もどうしようもない」(衛霊公第十五394)
まあ、誰だってこんな人たちは嫌だわな。この他に『論語』ではなく、『孟子』の「尽心章句下37」に孔子の言葉として紹介されている一文がある。(全文は長いので大意を記す)
「言ってる事とやってる事が一致しない者、自分の本心を隠し世の中に媚びている者は論外だ。こんな連中はうわべを上手に取り繕うので、非難しようとしても非難すべき点が無く、攻撃しようとしてもその材料が見つからない。彼らは世俗の慣わしを同じように行い、世の中に上手く迎合して生きている。
私(孔子)は似て非なるものをにくむ。口の上手い者はその言にあたかも義があるようで紛らわしい。多弁な者はいかにも真実があるみたいで紛らわしい。恥じることなく世に媚びるものは徳ある者に似ていて紛らわしい」
似て非なるもの、いわゆる「似非〇〇」には流石の孔子様もお手上げだったようだ。
それではこういう「似非〇〇」に誑(たぶら)かされると人はどうなるか。まず、誑かされる人というのは前回で紹介した「思いて学ばざる」人である。どんな落とし穴にはまるかというと、
①相手を尊重して騙される。
②知識を持っているけれど自信過剰になる。
③信義を重んじながら人を傷つける。
④正直だが自分で自分の首を絞める羽目になる。
⑤勇気があっても乱暴になる。
⑥しっかりしているが柔軟性を失って孤立する。
(陽貨第十七442)
こうならないためにも孔子は「客観的事実を学べ」と言っている。しかし中々出来るわけでもないし。。。
一番無難な方法は「自分に都合の良い事実」について裏づけを取るようにすることだろう。自分とは反対の立場にある人が、そのことについてどんなことを言っているか。それを確かめて自分の考えをチェックする。自分と同じことを言っている人の意見を読んでも裏づけにはならない。西洋のことわざにも「悪魔は甘い言葉で近づいてくる」というのがある。
しかし、こんな「似非〇〇」が多い世の中をどうやって渡っていけばよいのか。と、『論語』の中を探してみたら、「為政第二34」に「子張、禄を求むるを学ばんとす」というのがあった。「禄」というのは給料のこと。「給料を貰う」というのは「サラリーマンになる」ということである。
おお、孔子様がサラリーマンの秘訣を教えてくださる!
早速読んでみたが、その内容はまた来週。
【言っておきたい古都がある・252】