論より証拠
~百聞は一見にしかず~
今回も『古今著聞集』から。
人を非難するときは物的証拠が必要だという話。
「巻第16興言利口第25」より。
中間法師(雑用をする下っ端の坊さん)と山伏と鋳物屋が旅で同宿した。
その宿の女主人というのが遊女であった。(これは現役ではなく、遊女から足を洗って、貯めた金で宿を開いたのではないかと思う)
その晩、山伏が鋳物屋のふりをして女主人の寝室に忍び込み、宿の炊事場にある釜がひとつしかないので、もうひとつ(釜を)あげるから」と言って一緒に寝た。
明け方になって山伏は早立ちすると言ってさっさと宿を出てしまう。
朝になって起きた女主人が鋳物屋のところに行って「約束の釜をくれ」と言うが、鋳物屋はそれこそ寝耳に水。降って湧いたような話に「そんな約束はした覚えがない」と否認するが、女主人は収まらない。
「お前は昨夜その六寸はある男根でしたたかにしたではないか」となじると、鋳物屋は
「これぞまさしく天佑神助。これを見ろ!」
と自分の一物をさらけ出した。
そしたらそれはお粗末なものでしかも皮を被っていたと。
これで鋳物屋の無実が証明された。
何事も人を非難するときは物的証拠に寄らなくてはならない。
もちろん、自分の無実を証明するときも物的証拠に寄らなくてはならない。
そもそも、鎌倉時代の刑法では罪を証明する証拠が本人の自白しかない場合は有罪にしてはならない、という規定があった。この説話もその「証拠主義」を教えているのかもしれない。
それにしてもこの山伏、とんでもない奴であるが、さて、こいつは本当に本物の山伏だったのか?
中世には偽者の山伏が結構いた。格好だけ山伏で、下手な法螺貝を吹いて家々を巡りお布施をもらっていたという。
この偽山伏があんまり沢山いたから、今でも嘘をつくことを「法螺を吹く」と言うのだそうである。
うん。いかにもありそうな話だ。
ところで偽坊主というのは平成の現在でもいる。
一昔前は霊感商法で有名だった団体が信者にやらせていたらしい。
だいぶ前、以前に住んでいた家に偽者の坊さんが来て団扇太鼓を叩いたのだが、だいたい、ああいう太鼓は
トンツク、トントン、ツクツク。
トンツク、トントン、ツクツク。
と鳴らすものだろう。それをその偽坊主は
トントントントントントントントントントントン。。。。
とテンポ良くデタラメに鳴らしていたのであった。
私はこれは絶対に偽者だと思ったので
「どうぞお通りやす!」
と言ったら、その偽坊主はスッと去っていった。
言った事が通じた。
やっぱり本物だったのか?
しばらく前、大阪にもっと凄い偽坊主がいた由。
その偽者、曹洞宗の衣を着て浄土真宗の袈裟を掛けて日蓮宗の数珠を持っていたとか。
偽者でもコーディネイトぐらいはちゃんとしろ、と言いたい。
【言っておきたい古都がある・207】