六角牢(完結編)
~京都市中引き廻しの巡行コース~
前回の続き。
どんどん焼けのドサクサに紛れて勤皇の志士33人が処刑されたわけだが、これは「解き放ったら過激派だから戻ってくるわけがない。でも火事だ。さあ、どうする」という事態だったのは確かだろう。
ただ、そうだからといって「やむを得ず」処刑したのかというと、ちょっと疑問である。
33人の処刑そのものは既定の事実だったと思う。判決の前に火事が起きたから早まっただけ。まあ、判決無しに斬首したのだが。
緊急措置として大慌てでやったのではない。
33人もの首を斬るのは大変な作業である。引き出して、首を斬って、死体を片付けて、次の奴を引き出してと、かなりシステム的にこなさなければならない。それを3時間でやった。
「3時間もかけてやった」のではなく「たった3時間でやった」のである。
1時間で10人のペースといえば、6分に1人の割りで首を刎ねることになる。 相当段取よくやらねば出来ることではない。
だいたい33人もの死体を片付けるのも大変だろう。あらかじめ準備が出来ていたとしか考えようがないのでは?
その日の火事がどのぐらいのスピードで広がっていたのかは知らないが、20日になって火の勢いが六角牢にも迫っているのに、3時間もかけて首を斬っている場合か? 実際に牢屋敷に火がついたらどうするつもりだったのか。斬首を途中で止めて逃げるか?
33人の処刑は火事で急遽決まったのではなく、最初から決まっていた。火事が処刑をもたらしたのではなく、元から決まっていた。私はそう思う。
だから、どんどん焼けで六角牢がどうなっていようが、燃えようが燃えまいが、33人の運命に変わりはなかったということ。
禁門の変が起きなくとも、いずれ近いうちに全員首を刎ねられていたわけである。
判決が出たら牢屋敷でそのまま刎ねられたのか、市中引き廻しの上で刎ねられたのか、それは分らないが。
ところで、その市中引き廻しだが、京都の街中を見せしめのために連れて回るのは分るのだが、それではどんなコースを進んだのか。
祇園祭の巡行と一緒で決まったコースがあったはずである。
ほどなく殺される死刑囚は冥土の土産にどんな京都見物をしたのか。
江戸時代より前には石川五右衛門で有名な「四条河原」が刑場になっていだが、江戸時代には「粟田口」が刑場とされた。
市中引き廻しの上、というのは六角牢を出て粟田口に着くまでのコースの事である。
そこでその「巡行」の道のりなのだが、
六角牢屋敷→三条通を東へ→油小路から北へ→丸太町→東へ→室町→五条~七条辺りまで南下→東へ鴨川を渡る→建仁寺→縄手を北へ→三条通→粟田口の刑場に到着。
四条河原町とか、今の我々のイメージにある繁華街は通らないのだな。
どのぐらいの時間を掛けたのかな。
見物人も多かったと思う。
江戸では馬に乗せられた死刑囚が見物人相手に辞世の句を披露したり、歌を唄ったりすることもあったそうである。
ちなみに「晒刑」は三条大橋で行われた由。
「273六角牢(その1)」で書いたように、この牢屋敷は山脇東洋が日本で初めて人体解剖を行った場所であり、解剖には死刑囚の死体が用いられていた。
首がないだけで出来たてホヤホヤの死体を使ったわけである。
その解剖用の死体だが、どれもこれも膝の部分に切り傷があったという。
つまり座った状態で押さえつけて首を斬っているから、勢い余って刀が罪人の膝まで切ってしまうわけだ。
解剖図にはちゃんと膝の傷も描かれている。リアルですね。
それにしても京都いうのは凄いところである。古い町なのに新しいものが好きというか、「日本で初めて」というのが多い。
日本で初めて市電が走った。
日本で初めて商業用の水力発電所を作った(世界でも2番目)
日本で初めて小学校を作った(文部省が出来るよりも早かった)
日本で初めて学校に図書館を設置した。
日本で初めて映画が上映された。
日本で始めて公立のオーケストラを作った(京都市交響楽団)
探せばまだある。
しかし江戸時代から「日本で初めて」というのをやっていたのである。まあ解剖だが。
その解剖に使った死体は引き廻しにはなっていないと思う。死体を粟田口から六角牢まで持って帰ってくるのは大変なので、33人の勤皇の志士のように牢屋敷内で首を刎ねられたのだろう。
ところで六角牢の跡というのは判りにくい所にある。マンションがあって少し凹んだ場所。数年前にお客さんと一緒に1度行ったことがあるが、2人で「確かこの辺ですよね」と迷ってしまった。
一度その跡地を見てみようかと思われた皆さん、きっと迷いますよ。
【言っておきたい古都がある・275】