奥ゆかしき礼儀作法
~京風コミュニケーションの極意~
さて、前回のこのコラムを読み、オマケに付いていた桂米朝の落語を聴いた人は「京のお茶漬け」の声の掛け方に違いがあるのに気づかれたと思う。
私の記事では帰える気配を見せない客に対してこれを言う。
米朝の落語では帰りかけた客にこれを言う。
このあたりは大阪人の勘違いではないかと思うのだが、一歩譲ってこのような用法もあるとしても、それはいわゆる社交辞令と思わなければならない。つまり
「本当はもっと居てもらいたいのですが、ここでお別れしなくてはなりません」
という意味。「まだまだ居てもらいたいのですが」という社交辞令を表すのが「お茶漬けでも」なのである。それを真に受けてはいけない。
だいたい大阪でも同じような社交辞令はあるのではないか。
たとえば、「○○の羊羹は美味しいでっせ。今度いっぺん持ってきますわ」と言われて待っていても、いつまでたっても持ってこないとか。この種の社交辞令はきっと日本各地にあると思う。ただ京都のお茶漬けのように有名になっていないだけだ。
この辺を阿吽の呼吸で理解しなければならない。
この「阿吽の呼吸」というのが時として難しい。コミュニケーションを図るのに言葉を使わないのだから。これほど厄介なものはないだろう。
言葉を使わずにこちらの意思を相手に伝える。特に相手にとって都合の良くないことを伝えるとき、独特の作法が使われる。ストレートに言ってしまうと相手を不快にさせたり落胆させたりしてしまう。それを防ぐために独特の記号を使用する。
面と向かって言うと露骨になる。故に明かな言葉ではなく別の「記号」を使う。この奥ゆかしい作法が京風コミュニケーションの極意なのである。もちろん、これらも近年は失われつつあるのかもしれない。いや、中にはすでに失われているものもあるだろう。その「記号」のひとつに「懐紙」がある。今でもこんな「風習」が残っているかどうかは分からないのだが。。。
来客を応接間に(とりあえず)入れる。
お茶とお菓子を出す。
ここまでは普通。問題はそのお菓子が皿の上に直接乗っているか、それともお皿とお菓子の間に懐紙が敷いてあるか。
ここに大きな違いがある。
懐紙が敷いてあるということは、「そのお菓子を懐紙で包んでください」ということ。つまり「お持ち帰りください」という意味で、これは要するに「お引き取りください」=「帰れ」という意味の記号である。懐紙の意味はお茶漬けと一緒。
これが懐紙がなければそのお菓子を「お召し上がりください」ということで、「しばらくお待ちください」という意味になり、待っていればそこの「偉いさん」に会えるということ。
懐紙のあるなしで天と地ほどの差が生まれるのだ。
たとえば、どこかの会社に営業に行って、応接室に入れてもらって、「社長に聞いてきます」と言われて、期待していたら出てきたお菓子に懐紙が敷いてあったと。これはもう「本日はお目にかかれません」という予告なのである。いきなりそれを言うと若い営業マンがショックを受けるかもしれないので、やんわりと、それとなく知らせる。
これが奥ゆかしき礼儀作法なのである。
今は昔、どのぐらい通えば会ってもらえるのかと思った若い社員が、週に一回その会社に顔を出して社長との面会を求めた。毎回毎回、懐紙を敷いたお菓子を出してもらってその場で食って待って「お目にかかれません」と言われて帰るというのを続けていた。
1年ほどたったとき、何といつものように出されたお菓子に懐紙が敷いてなかった。
ここで喜ぶかと思いきや、まず、自分の眼が信じられなかったのである。
これは何かの間違いではないだろうかと。
で、とにかく食べようとして手を伸ばすと、その右手は小刻みに震えていた。
慌てて左手で右手の甲を押さえて引き寄せたのであった。
結局その日はお菓子を食べなかった。
しばらくするとドアが開いてそこの社長が現れ、
「どうもお待たせしました」
と言ってくれたから。
本当に、長いこと待った。と感無量であったという話。
まあ、最初から面会してもらえることが分かっているときは、応接室に通されても立って待っているのが礼儀だろう。ひょっとしたら「京都の礼儀作法」でも、立ったまま待っていて、お菓子に懐紙が敷いてあったらそのままお持ち帰りするのが本当の礼儀なのかもしれない。この辺は難しい。私にとっても難しい。
でも、こういう「阿吽の呼吸」の出来るのが京都の京都たる所以かもしれない。
さて、前回のオマケであった桂米朝の落語の中にはもうひとつ、京都における阿吽の呼吸の挨拶が登場していた。次回はその話に移ります。^^
【言っておきたい古都がある・202】
桂米朝 「京の茶漬け」