陰陽師の真実(その2)
~陰陽師のお仕事~
さて、前回では安倍晴明は国家公務員であったという真実に触れた。
今回は、それならその「お役人様」はどのような「お仕事」をなされていたのかというお話である。
平安時代でも、木っ端役人は「休まず、遅れず、働かず」だったかもしれない。しかし晴明はそんな下っ端ではなかったのでちゃんと仕事はしていたのである。そしてそれは占いなどではなかった。
陰陽寮には暦方、漏刻方、天文方という重要な部署があった。
暦方というのは「暦」つまりカレンダーを作っていた。
現在では太陽暦になって、1年は365日、1ヵ月は大の月が31日で小の月が30日。2月だけは28日で、4年に1回閏年を作り、2月を1日増やして誤差を修正している。簡単なルールで、小学生のとき小の月を「西向く侍」と覚えたものである。
とろこが旧暦はややこしかった。
まず、大の月が30日で小の月が29日であった。しかも何月が大の月で何月が小の月かは決まっていなかったのである。これで12ヶ月にするのだから今の1年よりも日が少ない。つまり誤差が大きくなってしまう。
そこで、閏年ではなく閏月を作り、1ヵ月丸ごと放り込んで誤差の修正をするのである。ところが、この閏月がいつ飛び込んでくるのかも決まっていなかった。
こうなると政府のようなちゃんとした機関がその年のカレンダーを作って発表しなければ社会が混乱するのである。
でもって、その公式なカレンダーを作っていたのが陰陽寮の暦方の仕事で、この部署に勤めていた陰陽師はカレンダーを作っていたわけである。決して高島易断とかの暦とは関係がない。そもそも占いとも関係がない。
漏刻方というのは時計の管理である。
漏刻とは水時計のこと。
為政者にとって時間を支配するのは重要である。1日が24時間だというのは自然に決まっているわけではない。
だいたいわれわれの一日は夜の12時(0時)に日付が変わるが、伝統的にはイスラム圏などもそうだが、わりと多くの国で1日は日没から日没までであった。つまり日が暮れると日付が変わったわけだ。
これは「太陽が沈むことによってその日が終る」という考え方である。
となると、「朝起きてからその日1日は断食」と言う場合、今のわれわれなら起きたら最後、夜の12時が過ぎるまで何も食べられないことになってしまう。
でもイスラム教徒が「宗教的には伝統的に従う」のなら、日が暮れれば日付が変わるのだから、朝昼は抜いても晩御飯は食べられるということ。これなら我慢できそうだ。
たとえば「5日間の断食」と言った場合、われわれの感覚で5日間絶食するのではなく、5日間夕食だけを食べるということになる。
ついでにもうひとつ。
キリスト教徒でもない日本人でもクリスマスはケーキを食べて楽しむ。
何故、生誕日とされる25日ではなく前日の24日に食べるのか?
これも昔この風習が出来たときのキリスト教国の1日が日没から日没までだったから。
「クリスマスイブ」というのは「前の日の晩」ではなく「その日」なのである。日が暮れれば日付が変わったのだ。
しかし、太陽が子午線を通過したときに日付が変わるなんてインテリぶった考え方よりも、「お日さんが沈まはった。ああ、今日も1日終ったな」と思うほうが、ほのぼのとして良いように思ったりもする。
何はともあれ、漏刻方は水時計を管理していた、つまり「時間の支配」を担当することによって社会を秩序づけていたのであった。
さていよいよ陰陽寮の天文方である。
安倍晴明はここの役人だったわけだが、その仕事は日食と月食がいつ起きるかを計算することだった。
計算方法は大陸からちゃんと伝わっている。あとは天体観測と高度な計算あるのみ。
安倍晴明というのは科学者だったのである。
昔の人でも教養のある人たちは日食と月食が起きる理屈は知っていた。しかし一般庶民はそうはいかない。ある日突然太陽が隠れたらパニックである。そこで社会不安が起こらないようあらかじめ布告した。故に、晴明の仕事は重要だったのである。
ちなみに、古代中国では計算を間違えて日食の起きる日をはずすと首を切られた。「解雇する」と言う意味の首切りではなく、本当に斬首されたのである。だから天文方の役人は間違えないよう必死になって計算していたという。
日本の場合はそこまでの責任を取らされることはなかったようだ。
このように、陰陽師というのはオカルトでも超能力でもなく、かなり科学的に高度な仕事をしていたのであるが、それならば何故、占いだの神通力だのという話が出てきたのか?
それについては来週に続く。
【言っておきたい古都がある・119】