驚きの伏見(後編)
~すべての道は伏見に通ず~
さて、前回では豊臣秀吉は伏見に隠居するつもりではなく、伏見を日本の首都にしようとしていたという仮説を出した。
そこで「何故、伏見なのか」という問題が出てくる。
京の都は立派な首都ではないか。住民を立ち退かせてまでして巨大建築物を建てたければ、別に京の町中でも構わない。実際、秀吉は京の町並みの大改革を断行しているのである。
平安時代から続く京の町と伏見の町とではどのような違いがあったのか?
みなさん、ご存知ありませんか? あの有名な言葉。
「すべての道はローマに通ず」
そう、ローマ帝国の全盛時代、世界各地からの道がローマに通じていたということ。
正にこれなのである。
これこそ秀吉が作り上げたものであった。
(1)方広寺大仏殿から本町通を南下すれば稲荷を経て伏見に行ける。
(2)さらに南下して豊後橋を渡り、巨椋池を縦断すれば奈良に至る新大和街道。これを逆に見れば奈良からの道は伏見に通じる。
(3)淀堤(太閤堤)を通り大山崎経由で大坂に至るのが大坂街道。つまり大坂からも伏見に来れる。
(4)藤森から大亀谷・山科を経て追分から大津に行く大津道。てことは、大津(滋賀)からも伏見への道が通じている。
(5)六地蔵から木幡を経て宇治に行く宇治道。そう、宇治もまた伏見に通じているのだ。
これでもうお分かりだろう。
伏見は京、奈良、大坂、大津(滋賀)、宇治、これら全てと繋がっているのである。
すべての道は伏見に通ず。
伏見こそ豊臣秀吉が全国支配の拠点にしようとした場所なのだ。伏見城は隠居所ではなく、新首都建設の司令塔だったのである。
これを補強する推測を提供できる。
それは銀座。今風に言えば造幣局である。
教科書では伏見の銀座は慶長6年(1601)に徳川家康が開いたことになっている。
しかし、私は伏見に銀座を作るという計画も秀吉が立てており、家康はそれを引き継いだだけではないかと考えている。
仮にも銀座、つまり造幣局を作るのである。大変な事務処理と労働力が必要になるし、それに伴う利権も大きいだろう。
場所の選定、役所や施設の建設、必要な設備や道具の調達、職人の雇用。さらには銀の採掘と伏見までの運搬。
確かに、3年あれば家康独自の計画として銀座の設置も出来ただろうが、そうなると慶長13年(1608)に伏見の銀座を京へ移転させ、さらに慶長17年(1612)には江戸に移しているのは何故か? こんなのは予算の無駄遣いではないのか。
なぜこんなことをしたのか?
やはり家康も貨幣の鋳造は首都で行うべきと考えたのではないか。つまり、伏見に銀座がある限り伏見が首都というイメージは拭い去れないのだ。
読者の皆さんは「ん? 今、造幣局があるのは大阪ではないのか」と思われるだろう。
その通り。大阪に造幣局があるのは、明治の初めには大阪を首都にしようという計画があったからである。ただ、国防上の問題とか色々あって、江戸が東京という首都になった。
でも造幣局は大阪のままなのは、やはり当時も利権や何かで大変だったのだろう。ただし、お札を作る財務省印刷局は東京にある。
近代の明治でも、いったん造幣局を作る計画が立ち上がれば、首都の予定が変更になっても計画の撤回は出来ない。
江戸初期でも同じである。
つまり、伏見に銀座を設置することも秀吉の計画であったということ。
家康はそれを引き継いだに過ぎない。天下を取ってもまだまだ政権の基盤は弱い。「伏見に銀座を作る」という大きな利権の動きを家康でも止めることは出来なかった。
こう考えるのが妥当だろう。
では、秀吉が伏見に銀座(造幣局)を作ろうとした理由は何か?
もちろん、伏見を首都にするつもりだったからである。。
伏見は京都・大坂・奈良・宇治・大津(滋賀)を統合できる土地だった。
すべての道は伏見に通ず。
伏見こそ地政学的に首都として最適の土地だったのだ。
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あと一歩。もうあとほんの一歩で伏見は日本の首都になっていた。
それを阻止したのが徳川家康である。
家康くん、余計な事をしてくれたなあ。。。
(涙で完)
【言っておきたい古都がある・117】