日本書紀を読んでみた(その4)
~崇峻天皇の時代。やはり血生臭い~
さて、今回は崇峻天皇の時代に入る。厩戸皇子(聖徳太子)のいた時代である。だいぶ親しみが湧いてくるのではなかろうか。
この時代は蘇我氏と物部氏の抗争が熾烈を極めていた。雄略天皇や武烈天皇のように天皇陛下が暴虐なのではなくて臣下の権力闘争に軸足が移っている。やはり官僚機構も整ってきて政治もシステム的に動くようになってきたのかな。この辺りでもう天皇陛下は飾り物かもしれない。
さてその権力抗争なのだが、用明天皇が崩御すると物部守屋は穴穂部皇子を擁立しようとして、狩りにかこつけて自陣営内に取り込もうとした。ところがこの作戦が漏れて蘇我馬子は先手を打って穴穂部皇子の宮に軍隊を送り、皇子を殺害。ついでに穴穂部皇子と仲の良かった宅部皇子も殺した。
これで残るは物部守屋のみ。ということで蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)ら群臣に働きかけ、守屋を倒すべく軍隊を動かした。
ところが守屋も孤立したものの自ら先頭に立って奮戦、その勢いの凄まじさに厩戸皇子たちの軍は劣勢に立たされた。いやあ、死に物狂いの相手というのは強いのだな。きっと実力以上の力を出していたに違いない。
これではいかん、と厩戸皇子は仏さんに祈ることにした。霊木に四天王の像を刻んで、
「この戦に勝ったら四天王の像を造り、寺を建立します」
という誓願をしたのである。
よく「苦しい時の神頼み」というが、大昔は「苦しい時の仏頼み」だったのだ。
しかしご利益はあったようで、その後、戦況は逆転、守屋さんは殺されてしまった。
これも仏さんに祈ったおかげと、厩戸皇子(しつこいようですが聖徳太子です)は約束を守って四天王寺を建てた。義理堅いひとである。
もちろん守屋側の残党もいて、これとの戦いも熾烈だった。しかし最後は全部鎮圧。しかし相当な掃討作戦だったようで、河原に何百人もの死体が横たわり、どれもこれも腐乱してどれが誰だか分からない。さらに犬がその死体を食っていた。ワンちゃんも他に食べるものが無かったのだろう。まさに凄惨の極みである。
何はともあれ、こういう大変な道のりを経て崇峻天皇は即位したのだが、政治の実権は蘇我馬子が握っていた。まあ、馬子にしてみれば天皇陛下などは飾り物にすぎなかったのだろう。
ところが崇峻さん、大人しく飾り物のままでいたら良かったのに、だんだんと不満を募らせて蘇我馬子に反感を持つようになった。それだけなら良かったかもしれないが、あるときプレゼントされたイノシシを見て、
「いつの日かこのイノシシの首を斬るように、自分の憎いと思う人の首を斬りたい」
と言った。そして誰がチクったかは知らないが、これが蘇我馬子の耳に入ったからさあ大変。
このままでは自分の身が危ないと思った馬子さんは、東漢直駒という男を使って崇峻天皇を暗殺してしまったのである。
崇峻さん、脇が甘い。
本当に権力の奪取を目指すなら、そんなことを口に出して言ってはいけません。
しかし、最近、似たようなことがありましたね。
昔はビルマといったミャンマーという国で、憲法で保障されている軍の政治への関与を弱めようとしたスーチーさんとかいう人が軍にクーデターを起こされてしまった。本気で軍の影響力を弱体化させたいなら、それをやりますと言ってはいけない。「やりません、やりません」と最後まで嘘をつき通さなくては駄目だ。
今も昔も「飾り物」が自分で勝手に動いたり喋ったりしてはロクなことにはならないのである。
(来週は推古天皇の時代です)
【言っておきたい古都がある・424】