新京都七不思議は如何かな?
〜ミステリーの種は尽きまじ〜
京都で七不思議と言うと「知恩院七不思議」が有名であるが、今回は新たに「七不思議」を制定する。誰が? って、この私である。
【不思議之壱】輪形地蔵
まずは正行院。京都駅に一番近いお寺であり「猿寺」としても有名だが、こでは「輪形地蔵」として「新七不思議」に認定する。
ご存知のように昔は牛車が走っていた。否、走っていたのではなく、動いていたと言うべきだろう。まあ、運行していたのだな。
で、その牛車というのはレールの上を走っていたわけである。そのレールというのは石で出来ていた。
ある日、そのレールになっていた石のひとつが実はお地蔵さんであったことが分かった。誰が何を思ってこんな事をしたのかは不明なのだが、恐らく劣化していてそれがお地蔵さんであることが分からず、使ってしまったのだろう。
伝説ではある夜その石だけが青白く光っていたらしいが、実際はメンテナンスの時にでも「あっ、これお地蔵さんやないけ!」ということになったのだと思う。
しかし、分ってしまったからには放置できない。そこで地蔵堂を作りそのお地蔵さんを祀ったと。
しかし、牛車のレールになっていたからと、誰が言うとも無く「交通安全のご利益がある」とされるようになった由。
お地蔵さんもビックリかもしれない。
かくして、鎌倉時代の作とも言われているお地蔵さんが今でも祀られているわけである。さて、京都駅の近くに交通安全にご利益のあるお地蔵さん。この不思議な由来ともども、お参りしては如何かな。
【不思議之弐】仁王不在の門
仁王門ならぬ仁王不在の門とは何ぞや?
それは三十三間堂の南大門である。
よ〜く見てください。本来なら仁王さんの立っているべき場所に何もない。誰もいない。ただの空きスペースになっている。
これは如何に?
昔はここにちゃんと仁王さんが立っていたのだ。ただそれが重要文化財になったとか。で、ここに置いておいては劣化するというので博物館かどっかに預けたらしい。でもって、そのままであると。
劣化を防ぐために撤去するのはいいけれど、なら代わりにレプリカの仁王さんでも置いたらどうか。今のままではあまりにも殺風景ではないか。
しかし考えようによってはこの「仁王不在の門」というのはなかなかユニーク。
「仁王さん、どこ行かはったんですか?」と尋ねれば、
「ちょっとそこまで」とは言わないか。。。
【不思議之参】西本願寺の天邪鬼
西本願寺の御影堂の前で天水桶を支えている天邪鬼。
実は労役に借り出された民衆だと言う人もいますが、さてどっちでしょう。
確かに、見方によっては重労働をさせられているようにも見えるが、それは昭和の左翼全盛期に出てきた「ためにする」ための「説」かもしれない。
しかし考えてみれば天邪鬼というのは大体仁王さんとか四天王に踏みつけられてるわけである。天水桶は「自分の意思で支えているのだ」と思えるだけ、まだ天邪鬼もまだマシかもしれない。
【不思議之四】珍皇寺こっちの標識
東大路通りと八坂通りの交差点、北西角に「珍皇寺こっち」の標識がある。ただし、珍皇寺の正門があるのはひとつ南の松原通り。
もちろん、八坂通りを西に行っても北門がありけれど、普段は閉ざされていて入ることは出来ない。
つまり、この標識を信じたら珍皇寺には行けない!
この標識の上にはお地蔵さんが立っていて、それが松原通のほうを向いているので珍皇寺があるのはこのお地蔵さんの目線の方角だと分るとも言えるが、そんなことは誰かに教えてもらわなければ分らない。とにかく、紛らわしい標識である。
こんなものがあれば、あの世で迷わず成仏する前に、この世で道に迷ってしまう。中々ユニークですな。不思議、不思議。
【不思議之五】幽霊絵馬
伏見の御香宮神社にある幽霊絵馬。
不思議なことに肉眼で見ると薄れてほとんど判別できないのに、写真に撮ると結構分り易く浮かび上がる。
これって、心霊写真と同じ原理?
【不思議之六】魔王石
東福寺にある魔王石のお社。「魔王」といえば鞍馬の奥の院魔王殿が有名だが、こんな町中にもあるのだ。
臨済宗というのは「人間というものは無から生まれて無へと帰っていくものである。故に死後の世界とか霊魂と言ったものの存在は一切認めない」というのが基本だから、魔王なんて持ち出したら教義に反するはずだと思うのだが、そこは日本。柔軟である。
もっとも、ここに祀られているのは魔王さんご本人ではなく、あくまでも「魔王石」だからかまわないのかな。
皆さん、魔王石、見たいですか? 見せちゃいましょうか?
これが魔王石だ!
魔王石の現物がこれ。暗くてよく分りませんか?
拡大してみれば何やら輪郭が見えるはず。その輪郭が魔王の姿なのかも。
しかし、こんな写真を載せてしまって、この私に魔王の祟りはありやなしや?
【不思議之七】崇徳天皇廟
祇園花見小路歌舞練場の裏手に何故かぽつんと崇徳天皇廟がある。決して周囲の景観とマッチしているとも言えず、「何でこんな所にこんなものが」という気になってしまう。
崇徳天皇は保元の乱に敗れて流刑にされたが、保元の乱は戦争というより「クーデター未遂事件」ではないか。崇徳天皇の不満と鬱屈が爆発したけれど不発に終ったという、表現的には矛盾する話になってしまう。
花見小路なんて歓楽街の近くに天皇さんの廟がある、と思えば「?」かもしれないが、実は廟の近くが歓楽街になってしまったのである。順序が逆なのだ。しかし崇徳天皇廟の近くを歓楽街にするなんて、誰も「祟り」など気にしていなかったということなのだな。
何はともあれ、讃岐に流された崇徳天皇(正確を期せば崇徳上皇ですが)は死ぬまで都を呪っていたどころか、死んでもまだ呪っていたという。執念深いですね。でも、生きてる間はそれほど悶々としていたわけで。
だが、崇徳天皇は後白河天皇も平清盛も怨んでいたはずだから、その怨念が今でもあるとすれば、大河ドラマ「平清盛」の視聴率が上らないように呪ったのではないか。そもそも悪役で有名な平清盛を大河ドラマに取り上げて「いい人」にするなんて許せないと、祟っていたのかもしれない。
昨年の大河ドラマの視聴率が低迷した。これこそが崇徳天皇の怨念がなせる業だったのかもしれない。
【言っておきたい古都がある・62】
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