昔の映画は面白い(その6)
~日本の神話でロマンポルノを作ろう~
前回は大物主神(おおものぬしのかみ)が勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)を便所で強姦したというショッキングな神話をご紹介したが、昔(奈良時代)の日本のトイレは水洗式だった。
貴族階級は絶えず水が流れている道路側溝に堰を設け、築地塀の下の暗渠から屋敷内に水を引き込む。築地塀に平行した木樋の中に水を流し、この上に屋根をかけてそこで排泄をしていた。大便がそのまま流れ出ていかないように、少し先に穴を設けて沈澱させ、その上澄み水を元の道路側溝に戻していたのである。公共の水路に汚物を垂れ流さない、エコに配慮していたのだな。道路側溝や沈澱穴の掃除は、雨の降った日の翌日に囚人にやらせていた由。
素晴らしきかな、古代人の知恵。汚水垂れ流しは現代人の専売特許だ。
大物主神(おおものぬしのかみ)はこんな所で勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)を自分のものにしたのだな。
映画にするときは俳優は誰を起用するか? 厠で大便(くそ)まれるシーンだから。みなさんのご贔屓の美人女優で想像してみてください。誰がいいでしょうか。
聖林(ハリウッド)映画の天地創造の場面は旧約聖書の通り、神様が「光あれ」と言って順番に色々と作っていくが、大元の「創世記」には創造の話が二つあって、作った順番が違っている。このあたりはアバウト。
翻って、わが国の創造は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の「共同作業」である。私の持っている岩波文庫版では19ページから20ページに掛けてその場面がある。「二神の結婚」のところだ。
伊邪那岐命が伊邪那美命に「お前の身体はどうなっている」と訊くと、
伊邪那美命「一ヶ所足らないところがあります」
伊邪那岐命「私の身体には一ヶ所余っているところがある」
こうして伊邪那岐命は
「私の体の余っているところでお前の体の足らないところを塞ごう」
と言い、自身の「余りの部分」を相手の「足らない部分」に挿入して日本国が生まれた。
この時二人して「ああええ男」「ああええ女」と言っている。
このエピソード、太秦映画村で作りませんかね。でも太秦は東映か。この路線はかつての日活ロマンポルノだろうか。
だいたい日活ロマンポルノというのはフランス映画のヌーベルバーグに大きな影響を与えたのである。
どうですか、作りませんか、旧約聖書の映画に匹敵する日本神話の映画。受けると思うのだが。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・392】