昔の映画は面白い(その3)
~日米「時代劇」の親和性~
黒澤明というのはジョン・フォードを意識していたのか、娯楽時代劇と社会派現代劇の二種類の映画を作っている。両者のいわゆる社会派現代劇が退屈なのも似ていて、「わが青春に悔いなし」なんかは「わが谷は緑なりき」同様、途中で少し寝てしまったが、ストーリーを追うのにさほど問題なかった。もっとも、黒澤の現代劇でも「野良犬」や「天国と地獄」は娯楽現代劇である。
ところで、日本の時代劇は「チャンバラ」でアメリカの時代劇は「撃ち合い」だが、共通点がある。
たとえば日本では中村(萬屋)錦之助は敵を何十人でも斬るが、敵の刃は何十人が束になって掛かっても切先が錦之助にはかすりもしない。
同じくアメリカではジョン・ウェインが撃った弾はひとつ残らず敵に当るが、敵が撃った弾は何百発であろうが絶対ジョン・ウェインには当らない。
それを考えたら刀と拳銃とが対決したらどうなるかというのが黒澤明の「用心棒」のラストで、三船敏郎と仲代達也の決闘シーンはピストルを持った仲代達也に三船敏郎がどう対抗するのか。あの最後の対決も名場面だった。
巷間、黒澤明の「七人の侍」は「西部劇の面白さを取り入れた時代劇だ」と言われるが、「用心棒」は正に日本の時代劇で西部劇を作ってしまった傑作である。
で、この「用心棒」を取り入れたのがマカロニウエスタンの「荒野の用心棒」だが、原題は「一握りのドル」で、当初「黒澤映画のパクリだ」と言われたが、日本版タイトルてはちゃっかりあやかっている。
ただ、どっちの映画も冒頭で主人公が井戸の水を飲むシーンまで一緒だが、物語の内容はかなり変えてあって、展開と見せ場は同じようなものだが、やはりマカロニウエスタンというのは脚本よりもアクションシーンで見せるものなのだとは思う。
しかし、活劇物で主人公が半殺しにされるのは黒澤の「用心棒」が初めてではなかろうか。普通は主人公に危機が訪れても上手く擦り抜けるものだ。たとえば、ジョン・ウエインが敵に捕まっても間一髪でディーン・マーティンが助けに入るとか。あるいは捕らえられて監禁されても拷問の順番が回ってくる直前に脱出できたとか。主人公自身は血を流さないものだった。
今はそんなことはなくて、主人公も拷問を受ける。ヒーローも受難の時代となって久しい。
それともうひとつ、黒澤明の「七人の侍」を取り入れたのがユル・ブリンナー主演の「荒野の七人」で、これはちゃんと黒澤明の許可を得て作った由。
これも七人の侍ならぬ七人のガンマンを集めるのは黒澤の映画と同じだが、物語の設定は同じでも後半のストーリー展開はわりと平板で、妙にあっけない気がする。
何はともあれ、今でも日本映画がアメリカでリメイクさることがある。まだまだ良い日本映画が作られているのだ。
しかし、それでも私は映画というのは日本物も外国物も昭和40年代までだと思っている。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・389】