「野末の十字架」に聞く戦中日本の精神
本当に「軍国主義一色」だったのか?
昨年の8月、このコラムで「まぼろしの京都空襲」(http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5469)というのを書き、「京都に空襲はなかった」というのが嘘である事を指摘した。
今年のこの季節は、ちょっと失礼してもっと範囲を広げ、現代では良く言われている戦時中は「鬼畜米英」で「軍国主義一色」だったという通説にツッコミを入れてみたい。
まず、本当に「鬼畜米英」だったのか?
かつての“伝説”に「戦時中は英語を使うのが禁止されていた」というのがあった。だから野球の用語も日本語に変えられていた、と。
これはかなり正されて来ているようである。
①昭和17年の海軍兵学校のカリキュラムに英語というのがちゃんとある。
②戦時中の昭和19年に制作された戦意高揚映画「雷撃隊出動」の中で、野球に興じる日本兵が、ちゃんと「ストライク」「アウト」という言葉を使っている。
こういった事実により、この“伝説”を持て囃す人たちも減ってきたようにお見受けする。
「野球の用語も日本語に変えられていた」というのも、ひとつの事実としては存在するのだろう。ただ、それは時の政府が強制してやらせたものではなく、民間の戦争協力者がやったことである。ついでに言うと、「お寺の鐘を供出させた」というのも、政府の強制ではなく、民間の戦争協力者がやったこと。ま、ありがたく頂戴した政府も誉められたものではないが。
さて、こうなると、あの有名な言葉「鬼畜米英」というのはどうだったのか、というのが気になる。
この言葉があったのはひとつの事実だろうが、当時の新聞報道や見出しでこの言葉が使われたにしても、国民(当時は「臣民」だった)がそう思うよう政府から強制があったのかとなると、これまた疑問符が付く。
昭和17年8月20日に「野末の十字架」というレコードがコロンビアから発売されている。作詞・西條八十、作曲・古関祐而、唄・二葉あき子。著作権が生きているので歌詞をそのまま掲載することは出来ない。そこでその歌の内容を要約して下に記す。
1、ジャングルの夕立が止み
捧げられた赤いバラが匂っている
この十字架の下に眠っているのは誰だろうか2、眠っているのは戦死したイギリス兵士
たとえ敵でも
祖国に捧げたその命を讃えよう3、遠く離れたこの兵士のふるさとでは
両親が息子の戦死を知らず
その帰りを待ちわびているに違いない4、仇は憎んでも、人は憎まない
これこそが大和魂、これこそが武士道
赤いバラよ、その香りと共に
これを世界に伝えておくれ
説明するまでも無いでしょう。本当に政府が「鬼畜米英」を強制していたのなら、こんなレコードが発売されるわけがない。
どうやら「鬼畜米英」を流行らせたのも民間の戦争協力者のようである。
【参考】探したらyoutubeにありました。
「野末の十字架」
http://www.youtube.com/watch?v=tqxKyWWGfC4
さて、年配の方なら往年の名歌手・霧島昇のヒット曲「誰か故郷を思わざる」(昭和15年1月20日発売)というのをご存知だろう。
その当時、このレコードは日本国内では販売されなかった。「望郷の歌だから軍国主義に合致しなかった」などと早まった事を考えてはいけない。何と、レコードは全て戦場で戦う兵士への慰問用として前線に送られたのである。日中戦争の行き先は見えず、いつ故郷に帰れるとも知れない兵士の間でこの歌は爆発的に広まったという。みんな故郷に帰りたかったのだ。
こんなレコードを送られたりしたら戦意高揚どころか戦争するのが厭になるぞ。
当時の政府が「この歌は厭戦気分を煽る」と規制したかというと、そんな事実はない。それどころか渡辺はま子が戦地慰問でこの歌を唄った時、ほとんどの兵士が涙を流したという。もちろん、それに反する将校もいたらしいが、司令官の畑俊六大将まで泣いていたので何も言えなかったとのこと。
【参考】「誰か故郷を思わざる」
http://www.youtube.com/watch?v=pJPX911oWDs
このレコードを戦地に送るよう進言したのは伊藤正憲(後のクラウン会長)だが、これで伊藤が国からお咎めを受けたということもない。それどころか、戦地で流行っているというので国内でもレコードが発売されることになった。こういうのも「逆輸入」というのだろうか?
これが軍国主義なのか?
最後に、「野末の十字架」にも出てくる大和魂だが、これは「勇猛果敢に戦う」ことではなく、漢才(中国の学問や教養)に対して日本人が本来持っている知恵や才能の事である。戦時中はこれが違う意味に使われたので、その点では軍国主義の影響はあったといえる。しかし本来の意味は違う。
『源氏物語』巻21「少女」には大和魂が「政治的な才覚や常識的な思慮分別」として使われている。
『今昔物語』巻19には、自宅に盗賊に入られた男が、そのまま隠れていたらいいのに、我慢できずに立ち去る盗賊たちを罵ったために、戻ってきた盗賊に殺されてしまう話が載っている。この後、都の人たちは「隠れたままなら助かったのに盗賊を罵るなんて、あいつには大和魂が無かった」と批判したとある。つまり平安時代において、大和魂というものは「無駄に死ぬ事を避ける」ものだったのだ。
「鬼畜米英」や「軍国主義」を流行らせたの民間の戦争協力者のようであるな。その人たちは戦時中は国民の戦意を高揚し、あるいは強制し、戦後は一転してアメリカの民主主義を礼賛したのである。
「戦前の国民は騙されていた」というのもよく言われる。しかしそれなら、戦後の国民も騙されているのではないのか。戦犯にもならず公職追放にもならなかった「鬼畜米英」の方々とその後継者の皆さんが、現在では「鬼畜日本」で戦前戦中を騙り……失礼、間違えました……語り、ご活躍なさっておられるのではないのかな。
【言っておきたい古都がある・61】