中世トリビア(その8)
~死んで花実が咲くのだよ~
昔から「死んで花実が咲くものか」と言うが(最近では言わないのかな?)これは往年のドラマとか時代劇では自殺を思いとどまらせるときの決まり文句であった。
現代でも自殺(これも「自死」と言ったりするようになっているが)をどう防ぐかは宗教的な課題にもなっているようにお見受けする。
ところが、である。ここに私が「?」と思うことがある。
年配の方ならよくご存知ではないかと推察するが、かつては「即身仏」というのがあった。坊さんが断食して死に、ミイラになったその死体を有難いと拝む。天台宗でしたね。まあ、明治になってからこれは禁止されたわけだが。。。
これって、自殺ですよ。
自分の意思で死んでるわけだから。もちろん、宗教的には何か特別な言い方があるのだろう。しかしどんな詭弁を弄そうとも、自殺は自殺。キリスト教やユダヤ教なら「悪」である。
ところが仏教では自殺した人が信仰の対象になると。
これがどういうことかというと、
仏教というのは必ずしも自殺を否定していない。
キリスト教のように自殺を禁じていたら「即身仏」は成立しないのである。
このあたりに私は仏教の奥深さを感じる。
そこで例によって『沙石集』に移ろう。
まずは巻第4ノ7である。
大原の上人が三七日の無言の行の後、首をくくって死ぬことにした。今の世の中に生きながらえても意味がないと達観したのである。
これが有難いことだと京の都の老若男女が集まってきた。
ところが、いよいよその日が来て、死の前に行水で身を清める段になると、この上人、命が惜しくなったのか
「やはりそんなに慌てて死ぬこともないのではないか」
と言い出したのである。
ところが在家の法師でお堂の中に入れてもらえなかったのを妬んでいた奴がこれを聞き、
「世間に大々的に公表しておきながら今更なんだ!」
とクレームをつけたため、この上人は嫌々ながら榎の木に縄を掛け、首を吊って死んだ。
さて、半年ほどすると座主僧正顕真にこの上人が取り憑き、
「やめようと思って誰か止めてくれないかと期待したのに誰も止めてくれなかった」
と恨み節を告げた。
それなら初めから死ぬなんて言うな、と言いたい。
同じく巻第4ノ8の話。
これまたある上人が入水して往生しようと決心した。同行の僧に頼んで水海(これは湖のことだろう)に船で漕ぎ出し、飛び込むわけだが、体に縄を掛けていて、この縄を引けば水から引き上げてくれと頼んでおいた。
つまり死ぬ前に妄念が起これば往生できないから、そのときは自殺を思いとどまると。
さて、飛び込んだこの上人、水の中から縄を引いてきたので、同行の僧は言われていた通り引き上げて助けてやった。
こんなことが何回も続いた挙句、やっと入水すると「空から音楽が聞こえ、紫雲たなびき」めでたく入水を遂げた由。
これって結構、往生際が悪くないか。
本気で死ぬ気があるのなら一発で決めろよと言いたい。
意地の悪い考え方をすると、これは実は、あんまり何回も水から引っ張り上げるのにうんざりした同行の僧が、「もうやってられんわ」とばかりに縄を引かなかったのかもしれない。
何にしても、この上人も自殺を表明したところで同行の僧は止めてはいない。それどころか協力しているのである。
やはり仏教は必ずしも自殺を否定してはいない。
しかし、自殺志願をしたこの2人の坊さんだが、一方は最期の土壇場で死ぬのを止めようとし、もう一方は入水するといいながら相棒に引き上げてもらうことを繰り返している。
ひょっとしたら『沙石集』はこのような形で逆説的に「自殺はダメよ」と言っているのかもしれない。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・139】