中世トリビア(その6)
~坊さんだって人間だ、とは言うものの~
今回もまた『沙石集』を取り上げるが、この本(興味のある方は岩波の日本古典文学大系本でお読みください)には「これのどこが仏教説話か?」という話も収録されている(ただし小学館版などではカットがあるので要注意)。
たとえば巻第3ノ6「小児の忠言の事」の中にある話。
5歳になる子供が、「その年になってまだ母と一緒に寝ているようではダメだ」と言われたときに答えて曰く
「お父ちゃんかてお母ちゃんと一緒に寝てるときがある」
中々、落語的である。
まあこればかりは仕方ないが、自分のことを棚に上げて他人を批判する人は古今東西いくらでもいる。要するに、口先だけということ。巻第3ノ3にも
「今の世はただ形ばかりの僧にて心も語(ことば)もただ元の俗の如くなるのみ多し。悲しき濁世なるべし」
との嘆きが記されている。
また巻第6ノ9にも
「最近の坊主は仏法も知らず、ただ布施ばかり取る」
という苦言が呈せられている。
同じく巻第6ノ13にある話。
ある尼さんが逆修(生きているうちに自分の死後の仏事を修めること)をするため僧に依頼した。その坊さん、お布施ほしさに二つ返事で引き受けたまでは良かったが、いざ本番となって表白(法会の趣旨を申し告げること)をする段になるとその文言を書いた紙が見当たらない。
どこを探してもないのでこの坊主、完全に固まってしまい、汗をダラダラかき出した。とにかく、今までこういう言葉は人に書かせたものを読むだけだったので、臨機応変にアドリブで何かを言うことすらできなかったのである。
あまりのことに尼さんも心配して「汗を拭いてください」と言うのだが、ますます固まって声も出ない。そして無言のまま時間ばかりがたっていくので、仕方なく「御坊、降りたまえ」となり、禮盤から降りると袴の股立ちから紙がはらはらと落ちて風に吹かれた。坊主はその紙を拾い集めると平然と元の座に戻り、そしてお布施だけは受け取って帰って行った。
これを見た人たちは
「恥をかいても死にたいという気にもならないのだな」
と噂をしたと。
うーむ、この坊さん、中々の鉄面皮である。こうでなければ坊主は務まらないのかな。
ところで、現代は男女同権なので、ここで尼さんのエピソードも紹介しておこう。今度は巻第4ノ6である。
年齢30代の尼さんが老僧の世話をしていた。ところがこの尼さん、庵に若い僧を引き込んで「みだらな関係」になってしまったのである。
そこで何とこの尼は自分が世話している老僧を殺して時料(お寺の用に使うお金や物品)を我が物にしようと企んだ。相手は年寄り、力任せに組み伏して殺そうとしたところ、老僧の叫び声がかすかに聞こえた近くの聖が駆けつけて助けたので事なきを得た。
この尼さん、本来ならば死刑なのだが、遁世者ということで追放だけで済んだという。
いくらなんでも殺人未遂で死刑はないだろうが、追放だけというのも軽すぎるような。。。
しかし「形ばかりの僧にて」という嘆き節も、さもありなん。
とは言うものの、巻第2ノ10には
「破戒の比丘は外道に勝れたり」
とあって、生臭坊主でも異教徒よりはましだと言っている。
開き直りか?
それとも、これも方便か?
巻第2ノ8には「智慧浅けれども信心深ければ利益むなしからず」とあるけど、「形ばかりの僧」は信心も深くはないのではないか。
もちろん、これにも弁護論があって
「ありのままの自分をさらけ出す」
のは良いことなのだそうである。
確かに、これは中々出来ることではない。
しかし、それじゃあ大酒飲んだり、飲んで暴れたりする坊主がみんな有難いかというと、そんなことはないと思う。このあたりが悩ましい。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・137】