松尾芭蕉とお酒(その5)
~憂さ晴らしには酒が良い~
前回でご紹介したように、正月早々お酒で失敗した芭蕉だが、弟子の其角に対しては大酒を注意している。
「このほかにおくふかき大盃は、二尊のあわれみにはずれ、本性を失い候。九こんを愛せん人は、たとへ一代の法を学すとも、一文不智愚鈍の身になして」
あまり飲み過ぎると酔っ払って正体を失い、いつもいつも大酒を飲む者はどんなに立派な功績があっても無知な間抜けと同じだ、ということだろうが、ただ、人によってはお酒を飲み過ぎると「正体を失う」のではなく「正体を現わす」場合がある。これは時として「正体を失う」よりも厄介なことになりかねない。
「貴丈(其角のこと)常に大酒せられ候故(中略)大酒無用に候」
お前さんは酒を飲めばいつも必ず大量に飲む。こんなことはやめろ。
芭蕉は飲酒そのものは否定していない。でも鯨飲はするなということ。
まあ、酒を飲み過ぎてはいけないというのは常識だが、前回紹介したように芭蕉自身が酒を飲みすぎて元日の朝に寝過ごしてしまったのだから、どこまで説得力があるのやら。しかし其角はよほどの大酒のみだったのだろうな。
話を芭蕉に戻すと、嵯峨日記には次のようにある。
「唐の蒔絵かきたる五重の器に、さまざまの菓子を盛り、名酒一壷盃添えたり」
別にお菓子で酒を飲んだのではなく、お茶とお酒の用意をしたということである。お茶も好きだったようだ。
もちろん、大芸術家でも左団扇であったわけではないようで、
「憂いてはまさに酒の聖なるを知り、貧うして始めて銭の神なるを知る」(虚栗)
と、憂さを晴らすにはお酒を飲み、何をするにもお金が必要と、しみじみ感じ入っておられる。
貧乏になって初めてお金の有難味が分かるのも確かだが、どんなものでも無くなってしまってから、あるいは自分で無くして(捨てて)しまってから「あ、あれは良かったんだ」と気づいたりする。失くして初めて有難味が分かり、それに気づいたときにはもう遅い。
これが人間の性(さが)なのだろう。
さてそこで趣向を変えて、その芭蕉の発句ではなく、連句の七七のほうで詠んだ酒を紹介しよう。
「月ともみじを酒の乞食」
「たはれて君と酒買いに行く」
「月暮るるまで汲む桃の酒」
「夢さえ酒に二日酔いする」
「酔うてまた寝るこの橋の上」
芭蕉先生、橋の上で寝たらあきまへんがな。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・260】