松尾芭蕉とお酒(その2)
~お酒にも「わび・さび」がある~
前回の続き。その前にひとつ補足です。前々回の「お酒の話」で江戸時代に「甘口・辛口という言い方はなかったようである」と書いたのだが、それに関して。
芭蕉の資料を読んでいたら、酒を所望(要するに、おねだり)する手紙の中に「から口一升乞食申したく候」というのがあった。「から口」というのが「辛口」ならば、「甘口」も言ったかもしれない。まさか「唐口」ではないと思うので。
ところが、この「から口」というのは「お酒」のことで「あま口」というのは「お茶」のことだ、という考え方も成り立つらしい。この辺はいずれ改めて考えてみねばならない。
どっちにしろ芭蕉は結構あちこちにお酒を所望していた(つまり、たかっていた)ようである。中々意地汚いのではないかと思ってしまうのだが、大芸術家ならば許されるのである。
それにしても芭蕉の「おねだり」は凄いもので、先週の記事で紹介した中にも「肴は粒納豆でいいよ」という厚かましいものがあったし、他にも「さけ二升、肴何ぞ見合せ」というのもあり、酒二升の他に適当な肴まで要求している。国語の時間に教えてもらったイメージとかなり違うなあ。すごくストイックな大先生のようなイメージを植え付けられているのだが。
さて、先週予告した芭蕉と「わびさび」の酒について。
まず、「わびさび」とは何か。ここから始めなければならない。
◎「わび」とは装飾を徹底的に廃して最低限だけのものを残し、そこに美を求めるもの。
◎「さび」とは孤独に徹して、そこに精神性を求めるもの。
とまあ、こう定義すればそんなに大きくは外していないだろう。一見、難しいようだが、現代でも普通に使っている言葉である。「わびしい」というのがどんな状況か、「さびしい」というのがどんな状態か、そこからイメージすれば「わびさび」の境地も分かりやすくなるというもの。
さて、そこで芭蕉の「わびさび」の境地の酒の句に移ろう。
「月花もなくて酒飲む独りかな」
季節の谷間で奇麗な花もないし、月が美しい夜でもない。風流に愛でるものが何もないけど、たった一人で酒を飲んでいる。
「花にうき世わが酒白く飯黒し」
せちがらいなあ。酒はドブロク、ご飯は麦飯。多分、清酒や白米をたかる相手が見つからなかったのでしょうね。
「かぜ吹かぬ秋の日瓶に酒なき日」
落ち葉も散らず何の面白味もない秋の日に、酒までないとは。
わびしいなあ~~~。
いくら大芸術家は「たかり放題」だったとはいえ、そう毎日毎日いい事づくめではなかったようですね。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・257】
【編注:顰蹙(ひんしゅく)】