共産党の市長のほうが面白かったろうに(前編)
~別に共産党でもかまへんやんという理由~
先般、京都市長選挙は現職の方が四選を果たしたが、私は共産党当選のほうが面白かったと思っている。日本中にショック療法を施すことになったに違いない。自民党から共産党まで「まさか当選するとは!」と、のけぞったと思う。
京都で共産党というと、誰でもすぐ七期28年に亘って知事を務めた蜷川虎三のことを言うが、市長選挙をやってるのに何で知事の話をするのか? これだけでもう、みんな駄目だ。
今では誰も何も言わないが、京都では昭和42年に富井清という共産党の市長が誕生している。一期四年間だけだが、京都では知事も市長も共産党ただったのである。
しかしまあ、そのの4年間のことを共産党の人も言わないというのは、やはりあまり良くなかった?
この富井市長だが、本職は目医者さんで、邦楽の楽器の奏者でもあったので、富井市長の時代は京都市交響楽団の定期演奏会のプログラムは市長自ら書いていた。私はこれを一番評価している。まあ、オーケストラを支援することだけが市長の仕事ではないので、これだけで「いい市長だった」と言ってはいけないのかもしれないが。
しかし、共産党の人でも富井市長の「功績」を語らないのは「功績」が無いからかもしれない。そこで蜷川虎三になるのだろう。
さてここで、私が何故「共産党の首長でも京都はビクともしない」というかなのだが。。。
まず、蜷川虎三が知事であった28年間、京都府の予算は毎年毎年、年度内にちゃんと成立しているのである。これは自民党が協力しなければ出来ることではないだろう。実際、自民党が共産党に協力していたとしか考えられないのである。
何故かというと、蜷川虎三といえば一貫して共産党の知事だったと思いがちだが、そうでもない。昭和33年(1958)、蜷川の三選目の選挙で共産党は別の候補者(河田賢治という人)を立てている。蜷川サン、共産党本部の言うことを聞かなかったのかな。だから「何もしない」と思われたのだろうか。このあたりから蜷川虎三は「何も革新しなかった革新知事」という評価に繋がるのかも。何はともあれ、蜷川虎三は共産党候補を大差で破り、三選を果たした。
さらに面白いのは、この蜷川三選目の選挙で自民党が独自候補擁立を見送り、蜷川推薦に踏み切ったこと。今では考えられないような捻じれ現象が起きたのである。
つまり蜷川三選の「大差」の中には大量の自民党票が含まれているということだ。
で、この頃、自民党が蜷川虎三を革新側から保守側に転向させようという動きをしている。
「え! そんなことがあるのか」
と思われるだろうが、そしてそんなことが出来るなんて勘違いなのだが、ひょっとしたら出来るかも、という状況はあったのである。それを説明するにはまず市長であった高山義三の話をしなければならない。
蜷川知事と同時期に京都市長になった高山義三は、最初は「革新市長」であった。それが保守側に変わったのだ。だから蜷川も、と思う人が出たのも分かる。
しかし、高山市長は変節したわけでもないし、鞍替えしたわけでもない。
どういうことかというと、高山さんの元々の政治的な立ち位置が「社会党の右端か、自民党の左端か」という微妙なところにあった。ただ、刑事弁護士としては戦前から被疑者の人権に配慮した活動をしていたから、戦後になって市長に転出する時、革新側の候補になったのである。
ところが市長になってみると、革新側の人たちというのは口ばっかりで仕事が出来ない。机上の空論が多くて実務的なことがサッパリだったから、仕方なしに仕事をする相手を変えた。だから高山さんは何も変わっていない。仕事のパートナーを取り換えただけである。自民党はその辺が分かっていなかったらしい。だから「蜷川も」と思ってしまったのだな。
もうひとつ、「蜷川転向の可能性」と勘違いさせることもあった。
蜷川さんは公的な場では天皇陛下に敬語を使っていたのである。だから保守側に来てくれるかも、と思ってしまったのだろう。これも間違い。
蜷川さんが天皇陛下に公的な場で敬語を使っていたのは、ただ単に、「天皇陛下」という公的な立場にある人に対して「京都府知事」という公的な立場にある者が「公的な場において敬語を使う」のは当たり前だからである。純粋に儀礼上の問題で、心の中では天皇陛下を否定していたに違いない。それなのに「変節させられるかも」と思うほうがマヌケだろう。
こういうこともあって、初めのうち、自民党はけっこう蜷川に擦り寄っている。
では、「蜷川の変節は有り得ない」と分かってからも京都府の予算が年度内に成立しているのは何故か。やはり自民党の協力があったからだろう。じゃあ何で協力したのか、なのだが。
それは来週に続く。
【言っておきたい古都がある・373】