町家の未来(前編)
~本物を残すために必要なこと~
京の町家が「ブーム」と言われて何年になるのだろうか。いわゆる「京都らしい」というので人気を呼んでいる。これを「残せ、残せ」と仰る有識者や大学教授も多い。
( 写真: 水野克比古氏,出典: 「京町家の再生」,(財)京都市景観・まちづくりセンター編,2008 年)
しかし、「残せ」と言うのは簡単だが、実際に住んでいる人たちは大変である。たとえば行政当局が「町並み保存」のために外見に規制をかけたと仮定しよう。するとエアコンの室外機を表に出せないことになってしまう。つまり町家を維持している住人が夏場の屋内では扇風機で我慢しているときに、偉い先生方は冷房のきいた部屋でご高説を垂れていることになる。
もちろん、これは極端な例だが、実際に町家の表側に室外機を設置せざるを得ない場合、室外機を木の枠で囲んで外見に配慮している家を見かけた方も多いだろう。
維持費も馬鹿にならない。
純粋な経済合理性から言えば、町家など潰して普通の家に立て替えたほうが維持費は安上がりである。しかし、そこに住んでいる人たちの「これを潰したらもう二度と作れない」という心意気だけで維持されているようなものだ。
町家が減ってきた大きな理由のひとつは相続税である。相続税を払うために親が残してくれた町家を売らざるを得ない。「町並みを守れ」と主張する先生方が相続税の一部でも負担してくだされば街並みはもっと残るかもしれないのだが。
幸い(と言うべきかどうか)町家ブームのおかげで町家は多様な顔を持つようになった。
たとえば宿泊施設とかレストランやカフェなどである。北大路にある「堀北庵」などはコミュニティーセンターである。
ご他聞に漏れず、これらにも「居住空間であるべき町家がレストランなどになって、それで伝統を残していると言えるのか。本来の中身がなくなって、外見だけのヤドカリになって町家を維持していることになるのか」という意見もある。
それはそれで正論だが、だからダメなら町家は消えるしかない。この辺が悩ましいのだな。
ちなみに、私は先日その町家を使ったお店で晩御飯をご馳走になった。
そこの内部は改装されているとはいえ、階段は昔のままだったのである。急な階段で段の下の部分が箪笥になっている。まさに伝統どおりだろう。
ただ、この階段は壁と反対側には手摺りも柵も何もない。すっと横にずれれば下まで真っ逆さまである。
「落ちた人はいませんか」と尋ねたら、
「今のところは大丈夫です」
という答えが返ってきた。「今のところは」である。
安心して良いのか?
もっとも、「見るからに危険」だからこそ却って安全なのかもしれない。みんなしっかり注意するから。
このように料理屋とかカフェになり、「住む町家」から「見せる町家」になって維持されているとはいえ、なくなるよりはどれほど良いか分からない。これも時代の流れだろう。
最善の策が取れないならば次善の策を受け入れるべきである。
ところで、居住空間としての町家を何とかしようという動きもある。しかも行政の動きもあれば民間の動きもあるのだが、それについては来週に続く。。。
【言っておきたい古都がある・79】