杓子定規は止めよう、という話
図らずもシリーズ化してしまった「~は止めよう」という話題は前回で終了の予定だったのだが、またひとつネタが出来てしまったので今回もう一回だけ続けることにする。
~規制の文言にとらわれて本来の趣旨を忘れてはならない~
同様の話を二つ聞きかじったのだが、両方とも相手の言うことは正しいのだけれども「なんだかなあ」と思ってしまう人が多いのである。
要するに、看板の大きさとか文字が規制の枠を超えているということなのだが、一軒は工場の多い地区で街中の景観とは関係なさそうなのに、やはりダメなのである。
しかしまあ、これは条例というものは市内に平等に適用しないといけないので仕方ないとしよう。
もう一軒の方は話が複雑になる。
その後どのような展開になっているのかは知らないが、伏見にある新地湯というお風呂屋さんの煙突に描かれた屋号が大きすぎて規制に反するから消せといわれている由。
確かに大きさが問題なら仕方がないともいえるけれど、規制の本来の趣旨は「景観を阻害するような大きな看板の設置を制限する」というものだろう。
風呂屋の煙突に描かれた文字が景観を破壊しているか?
写真はその煙突の文字と京阪電車の中書島駅から見た周辺の風景である。
駅からの風景はガラス越しに携帯で撮ったのでちょっとボケているが、白っぽい(灰色か?)煙突に描かれた黒い文字が決して景観を破壊するようなものではないことがお分かりいただけるだろう。むしろ左手側の遠くに見える赤いロゴマークのほうが目立っている。
そもそもお風呂屋さんの煙突というのは屋号が大きく描いてあるものではないのか。つまり、それ自体が守るべき景観の一部なのである。
昭和30年代を舞台にした映画とか漫画では、風景として描かれた風呂屋の煙突に「松の湯」とか描いてあるのが出てくる。もう定番である。
さらにこの伏見の新地湯というのは単なるお風呂屋さんではなく、最近では映画祭を開いたりして伏見のランドマークになりつつある。この点からも「煙突に屋号が描いてある」という「様式」を守るべきなのではないのか。
「大きな文字の看板はいけません」というのは「町並みの統制を乱すような設置物はいけない」というコンセプトで作られた規制のはずである。規制の文言にとらわれて本来の趣旨を見失ってはいけないだろう。
風呂屋の煙突に描かれた屋号は町並みの一部である。
どうか行政当局にもそのあたりを臨機応変に対処していただきたい。
で、この新地湯の一件、現時点でどうなっているのか分からないのだが、まだ救済の可能性があるようなら、伏見の皆さんで市長に直訴でもしますか。
元和4年(1619)の小林勘次、天明5年(1785)の文殊九助に次ぐ第三次伏見騒動に発展するかもしれない。
【言っておきたい古都がある・76】