キツネとタヌキはどちらが悪い(その1)
~狐は狡猾で狸は剽軽というイメージがあるが~
さて前回、街中に作られた広大な空間は日本なら宴の松原(正確には御所の中ですが)で欧米ならハイドパークやセントラルパーク。昼間でも薄暗いと何やらよからぬことに巻き込まれるのは共通だが、欧米では「陰謀」に巻き込まれ、日本では「怪異」に巻き込まれる。まあ、どちらも巻き込まれたくはないものだが。
で、わが国の怪異と言えばそれを起こす「犯人」の定番はまず鬼なのだが、人気の点ではキツネとタヌキも捨てがたい。
キツネもタヌキも人を化かす。ただ、表現としては
キツネにつままれる。
タヌキに化かされる。
となって少し違う。
また人をこれらに譬えると
女狐。
狸親爺。
となったりする。
イメージから言うと何となくキツネは狡賢いけどタヌキはどこかユーモラスである。キツネのほうが悪そう。
でも古狸とも言うし狐の嫁入りというのもある。
まあ結構公平に扱っているのかも。
ただし、伝承の中では狡賢く逃げるキツネに対してタヌキはわりとよく退治されている。ドジなのかマヌケなのか。
しかも、そんな悪い狐は「お稲荷さんのお使い」で神様扱いなのに、タヌキはそうではない。結局「悪い奴ほどよく眠る」のか?
ところが、タヌキも神様として祀られたことがあるのだ。
祇園白川にある辰巳大明神。京都を舞台にした映画やドラマでもお馴染みで、とにかくここを撮っておけば京都らしくなるという場所のひとつである。
ここは「辰巳稲荷」とか言われたりもするが、そして実際お社にはキツネがいるが、本来はタヌキである。
かつてこの界隈に人を化かすタヌキがいた。祇園で飲んだ人が家へ帰るのに巽橋を渡ろうと一歩踏み出したとたん、そこに橋は無く、そのまま川にドボンとはまったと。
タヌキに幻覚を見せられていて、橋のない場所なのに橋があると思い込んで踏み出してしまったのである。
こんなことが続くと人間の側も何時までも手をこまねいている訳にはいかない。何とかしてこのタヌキを捕まえようとした。ところが、これが中々賢いやつで何時までたっても捕まらない。
で、一計を案じた人間が、一転してそのタヌキを神様として祀った。これぞ逆転の発想。「神様」にされてしまったタヌキは、ひょっとしたら訳が分らなかったかもしれないが、「神様が悪戯をしてはいけない」という自覚が出たのだろうか、それ以後は人を化かさなくなったそうである。
もっとも、この話、真相はただ単に酔っぱらいが勝手に勘違いをして川に落ちただけだろう。でもそれではカッコ悪いからタヌキの仕業だとされた。まあタヌキもとんだ冤罪だな。しかし「神様」にしてもらえたのだからそれで良しか、と思いきや。。。いつの間にかタヌキである事を忘れられてキツネにされてしまった。冤罪を受けるわ、神様の座をキツネに取られるわ、タヌキはどうも分が悪い。
もっとも、どんなに「神様」に祀り上げられたところで、それまで悪さをしていたのならそれは疫病神にしかならないと思うのですけれどねえ。それでも神様は神様である。
こうなると今度から神様に祀り上げられたタヌキの悪戯は全て「天罰」になってしまふのではないか。ここまで発想が及ばなかったのが人間の限界だろうか。タヌキもハッスルして悪戯に磨きを掛ければよかったのに。つまり、晴れて「神様」になったのだから、「天罰じゃあ」とか言ってタチの悪い酔っぱらいを川へ落とすとか。まあしかし、そこまで考えが及ばなかったのがタヌキの限界だったかも。
何はともあれキツネに比べればタヌキというのは愛嬌があるとされるようで、井上ひさしの『腹鼓記』はタヌキが主人公でキツネは悪役だった。落語の「七度狐」も狐に化かされる旅人の話。まあこれは旅人のほうにも過失があったからなのだが。
もちろん例外もあって、「ごんぎつね」はいい話である。ただしこの結末はその前提として「キツネというのは人間に悪さをするもの」という思い込みがあったからこそ、その反転が感動に繋がる。やはりキツネというのは悪役が定番なのか。
(来週につづく)
【言っておきたい古都がある・404】
2012年6月5日に第一回「あきれカエル? ひっくりカエル?」から数えて、8年。
本コラムは、連載400回目越えとなりました。ご購読感謝いたします。