家尊人卑(その7)
~お母さんには「職務権限」があった~
前回からの続き。勘当について。
息子を勘当したお父さんが亡くなったら、その勘当を解く権利は誰に移ったのか?
お母さんが存命ならばそのお母さんに権利があったのである。
ただし、お父さんの遺言があって「絶対に勘当を解くな」と記されていればそちらが優先された。
しかしながら、遺言も無くお父さんの意思も不明な場合はお母さんが決めた。ただし、現実にはお母さんだけではなく親戚一同で協議して決めたのだろうと推定されている。
ところで、息子が勘当されてもその妻子には影響はなかった。子供がいれば家の嫁として暮らし続けてよかったし、子供がいなければ通常は離縁されて実家へ戻ったようである。ただし、これは単なる追い出しではなく、この連載を読んできていただいている方にはお分かりだろうが、婚家が妻に再婚の許可を与えたわけである。不肖の息子の事は忘れて第二の人生を歩めと。
決して奥さんを家に縛り付けていたわけではない。これが男尊女卑ですか?
さて、ここでもうひとつ、勘当に関して大事な話をしよう。
お父さんが死んでしまった後、息子に不品行があって勘当したいという事態になった時、勘当の権利は誰にあるのか?
これもお母さんであった。
お父さんが亡くなった後、勘当権はお母さんに移ったのである。
勘当という子供に対する懲戒権は父が死ねば母に引き継がれた。
これは勘当が親権の一種だったからだろう。
お母さんでも息子を勘当に出来た。
しかも、息子が家長となって家を継いでいても、不品行があれば勘当できた。
たとえば、お父さんが存命で隠居していた場合でも、家を継いだ息子に問題があれば勘当できたのである。そしてこの権利はお父さんの死後はお母さんに引き継がれた。親の権利はそれほど強かったのだ。父も母も同じ権利があったわけで、父親が優先されてはいたが、母親が無視されていたわけではない。これが男尊女卑ですか?
こうなるとお母さん=正妻という立場には時と場合によって責任ある役割が求められたことが分かる。
「正妻」というのは確固たるひとつの地位であった、というのはいずれこの連載が町人から離れて武家について検討する際に重要になってくる。
何はともあれ、「正妻」という立場の女性は一種の「職務権限」を有することがあった。
お父さんが隠居していても息子を勘当することが出来たし、お父さんが死ねば子供を勘当する権利はお母さんに移る。
すると家長になった息子をお母さんが勘当できたのかという話になるが、出来たのである。
こうなると「家長」とは何ぞや、ということになってくる。
実は江戸時代の日本に「家長権」なる権利は無かった。
そんな権利があれば家長は一族の人に対して権限を行使できたはずである。
そして日本のお父さんは子供に対しては親権があり、妻に対しては夫権があったのだが、伯父伯母兄弟姉妹に対しては何の権限も無かった。もちろん勘当には出来ない。この辺りの事実は意外と見過ごされている。
さて話を変えて、惣領息子がお妾さんの子で、次男が本妻さんの子であった場合、相続の順序はどうなったか?
これも江戸時代には考え方に揺れがあり、板倉氏新式目では「本妻の子に継がす」となっているが、鼻山人の『由佳里の梅』には
「もし男子ならば惣領のことゆえ妾腹の差別は無い」
とある。もっとも、女子ならばまた違ったようだが。
家長が子や孫、養子も無いままに死んでしまったら、家名は妻が継いだ。ただ、これも早い段階で養子を取るか、入婿を取るかすることが望まれたようである。
それでも妻が財産を相続できた。
これが男尊女卑ですか?
いやいや、家尊人卑なのである。
さて、家長が子供や孫どころか、奥さんもいないまま死んでしまったらどうなるか。
この場合は親族一同の協議で相続人が決まったのだが、選定の範囲や順位に規則はなかったのである。親族の誰にでも相続人になる可能性があった。つまり男でも女でもよかったということ。
ただし、実際は血統重視の立場から故人に弟がいれば相続人としてほぼ間違いなく選ばれた。しかし弟に相続権があったわけではなく、他に優秀な人がいればそっちが選ばれたりもした。
この辺りも決して男尊女卑だとは言えない。
そう。家尊人卑なのだ。「家」を維持していくのに誰が一番最適かが重視されたということ。
ということで、次回は後家さん、つまり未亡人についてみてみよう。
(つづく)
【言っておきたい古都がある・282】