家尊人卑(その6)
~江戸時代の婿養子が離婚の場合は?~
さて、前回で江戸時代の婿どのの肩身が狭かったのは時代劇の中の話だけではなかったというのが分ったが、その婿どのと離婚するに際しての手続きに関して江戸時代から議論があった。
三行半(みくだりはん)を書くのか?
婿養子だから、養子という身分が解消された時点で自動的に離婚したものと見做されるのか、あるいは養子縁組を解消しただけでは離婚は成立せず、婿どのに三行半を書かせる必要があったのか。
神沢貞幹の『翁草』巻5には、
「今も民間には養子不縁ののち、ややもすれば離縁状の出入六かしき事なり」
とあって意見が分かれていたようである。
ただし、徳川幕府の法律では明解に決まっていた。
三行半は必要なし。
10 婿養子という縁が切れれば自動的に離婚だった。
それでも三行半というシステムは相当強く認識されていたようで、離婚の場合は婿養子から三行半を貰わなければならないと思っていた人がたくさんいたようである。しかも町人だけではなく武家でも混乱していた。
文化8年(1811)10月、小笠原相模守家来からの問合せに、
「娘に婿養子を取り女子が生れましたものの、このたび婿養子を不縁(養子縁組の解消)にしますが、婿養子より娘への離縁状を取らなくても夫婦の離婚は成立するでしょうか」
というのがあり、これに対して御目付は、
「婿養子としての縁が切れれば娘との婚姻関係も解消する」
と明解に回答している。三行半はいらなかった。
こうなると江戸時代の婿養子は辛いですねえ。普通の旦那さんのように「三行半を叩きつけて女房を追い出してやらァ」なんて威勢のいい事は言えなかった。これだから「小糠三合持ったら養子に行くな」と言われたわけである。糠みそ三合ほどの僅かな財産でもあれば婿養子になんか行くな、と言い伝えられていた。婿養子になんかなったら男の立場がなくなるよと。
これが男尊女卑ですか?
婿養子が養子としての縁を切られたら、そのまま奥さんとは離婚だったのである。これだから家尊人卑なのだ。
ここまでで江戸時代の婿養子がどんなに肩身が狭かったかというのを明らかにしたが、ここで問題になるのは婿養子との間に子供がいる場合、不縁(縁組の解消=離婚)に際してどちらが引き取るのかという件でである。
これも幕府の法律ではちゃんと決まっていて、寛保年間(1741~1744)以前の制度では「男子は父に、女子は母に」と規定されていた。
ただし、時代が下がると改正されて、文化11年(1814)5月の御勝手からの伺書に対する松平伊豆守よりの回答に、
「婿養子を実家へ帰したら子供は男女とも養子が連れ帰ること。ただし、双方話し合いの上で子供を養家に留める場合、男子は養家から他へ養子に出す事は出来ない」
とある。
また、『諸例撰要』巻七天保5年(1834)7月問合の附け札に
「婿養子が離縁されたら生れた子供は養子が連れ帰ることになっているが、双方がよく話し合った上で養家が引き取る事は自由である」
とも記載されている。
男尊女卑が基準にされていたわけではない。
さて、子供を引き取る話が出たところで、いわゆる親権の話題に移るが、ご存知のように江戸時代には(そして明治以降も)「勘当」というのがあって、テレビなんかではお父さんが「感動だ、出て行け!」と言えば息子は家を追い出され、「昔のお父さんは権威があった」などと評されたりもするが、これは事実に反する。
「勘当だ」と言い渡しただけでは勘当は成立しなかった。
奉行所に勘当届けというのを提出して、それが受理されて初めて勘当になったのである。勘当帳というのがあって、ここに記載されて勘当が成立した。
だから「父親の権威」なんて関係なかった。
勘当は届出制だから、その届けを取り下げれば勘当は解けた。
お父さんが気を変えて取り下げてくれればそれで良し。
ではお父さんが亡くなったらどうなるか?
次の当主、家長にその権利があるのか?
実はそうではなかった。
では誰にあったのか?
答は来週。
【言っておきたい古都がある・281】