家尊人卑(その34)
~伝統的な「家」の継続は男系男子によるとは誰も思っていなかった~
「江戸時代までの日本は男尊女卑ではなかった」という話から始まって、それでは何だったのかというと「家尊人卑」だったという話につながりここまで来た。
前回記したように、明治の民法は西洋の個人主義と日本の「家」との折衷になった。
で、その明治民法は戦後になって改正さたわけである。かつての教科書には「民主的になった」のだと書かれていた。(今でもか?)
しかし、流石は伝統というべきだろうか、「家」というのは生き残っているようである。
たとえば「あなたが信じる宗教は何ですか」と訊かれても答えられないけれど、「あなたの家の宗教は何ですか」と訊かれれば答えられる。
他にも、結婚式は〇〇〇〇君と〇〇〇〇さんの婚姻ではなく、〇〇家と〇〇家の縁組である。
すっかり定着しているのだ。
子供が親と同じ職場(会社とか役所とか)にご奉公することがあったりするのも江戸時代と同じ。
無くならないのは「家」が社会的に認知されているからだろう。
しかしこれでは「家の制度は現在もなお残っているのだ」なんて陳腐な結論になりそうである。
そこで、前に少しだけ出てきてそのままになっている皇室に関してだが、男系の男子によって継がれてきた皇室と伝統的な「家」の継がれ方は違うのではないか、ということを書く。
ご存知の通り天皇陛下の位は男系の男子によって継がれてきた。
ところが伝統的な「家」というのは別に男系男子にこだわっていない。商家などは娘が生まれた方が喜んだりもしている。
「天皇制」という言葉は大正時代になってから共産党が作った言葉だそうである。誰もそんな制度設計をした人はいないのだが。
「家の制度」というのもやはりそんな制度設計をした人はいない。
ただ、両方とも明治になってから憲法や皇室典範や民法で「目に見える」ようになったので、何となく古代から「制度」として存在するように思ってしまっているだけである。
で、今まで見てきた実例から目に見えない江戸時代までの「家」の原則を類推すると次のようになった。
不文律その1「家の維持には男女のこだわりはない」
不文律その2「家は血の濃さを重視する」
不文律その3「家の意思は満場一致で決まるが一貫した原則があるわけではない」
不文律その4「家の継続のためには他の原則が無視される事もある」
不文律その5「家は直系の血のつながりの継続を重んじる」
伝統的な「家」というのは継嗣に「男系男子」というこだわりを見せていない。
男系男子に限ってきた皇室のほうが例外になるわけだ。
江戸時代まで「京の都に天皇さんがいやはる」というのは多くの人が知っていた。そしてそれを伝統的な「家」の感覚で捉えていたとすれば、武家や商家の「家」と同じように思っていた事になる。
つまり、男系男子にこだわっているなんて誰も知らなかったのではないのか。
そんな特殊なスタイルではなく、普通に継がれてきたという認識だったのではないのか。
平安時代の藤原氏の時から鎌倉時代の源氏と北条氏、室町時代の足利氏、戦国時代は色々いて、桃山時代の豊臣秀吉から江戸時代の徳川家、そして明治、大正と来て昭和の自民党時代、平成になって民主党に移り、また自民党に戻ってと、時代によって政権を担うものは色々変わったが、その時代その時代で天皇陛下は民衆と共におられた。
権力者は変わっても皇室と民衆は変わっていない。
昭和の時代、「元号を廃止して西暦に統一せよ」という運動(?)があった。
ただ、この「西暦」というのは事実を隠蔽した言葉である。正しくは「キリスト暦」と言わねばならない。
キリスト教国でもない日本がキリスト暦を使うのか?
それって、特定の宗教に便宜を図ってはいけない憲法の規定に反するのではないのか?
しかし、先帝昭和天皇が亡くなられ、新しい元号「平成」が発表された時、その元号はまるで空気の如く受け入れられた。
正に伝統の力というべきだろうか。
これが目に見えない「家の制度」の賜物だとすれば、民衆が無自覚の内に認識している「家」の継続と皇室の継続はスタイルが違う事になる。
江戸時代の民衆は、またそれ以前の民衆も、「皇室は男系の男子によってのみ継がれてきたから凄い」と思っていた人が一体どれだけいたのか。
ほとんどいなかったのではないかと思う。
皇室もまた武家や商家と同じようなスタイルで継続してきたと勘違いをしている人のほうが多かった。恐らく圧倒的に多かった。
するとどうなるか。
(来週いよいよ完結編!)
【言っておきたい古都がある・309】