家尊人卑(その32)
~「家」は子供が継ぐのが当たり前なのだが~
さて、前回は皇室という「家」には力を失ったにもかかわらず、何か「得体の知れないモノ」があったのではないか、というところで終ったのだが、ここでまたちょっと商家のほうの話に戻る。
江戸時代でも都市化と商業化が進むと経済力では小さな藩を凌ぐ豪商が現れた。まあ、現代でも地方の小都市よりも大企業の予算の方が多いというのはあるかもしれないが。
商家には武家のように安定した領地や固定した家臣はいなかった。しかし、段々と「家」としては武家のそれに近くなっていくように見える。
今でも商社として残る三井は家督を相続する惣領(直系の長子)と家法の執行を担当する親分(一族の最年長者)、そして家業を統括する頭領役とで役割分担をしていた。しかもこの頭領役は共有財産の持分権を有する「家」のメンバーによる互選で選ばれていたのである。
こうして「家」における親族集団と経営体との分離が進んだ。
この「家」における「血縁のないメンバー」である奉公人は、丁稚として住み込みで働いた後、成人すれば結婚して世帯を持ち店に通勤していた。そして生れた子供も奉公人として親の勤める店に住み込むのが普通になった。
こうなると武家の家臣団みたいになってくるな。
江戸時代の商家ではすでに所有権と経営権の分離が行われていたわけで、現代の企業と同じような仕組みになっていたのである。
今でもお父さんが市役所に勤めていれば子供も市役所に入り、商社にいればそこに入社するというのも一部ではあるようだが、考え方を反転させればそれが今の「家」ということになるのかもしれない。
流石に平成の現代ではないだろうが、昭和の時代には汚職事件などが起きると商社の専務さんが自殺して終り、というのがあったりした。正に「家」を守ったということか。
何はともあれ、現代で昔の「家」に近いのは子供が親の後を継ぐお寺かもしれない。
これはわりとあちこちで報道されたのでご存知の方も多いと思うが、つい先日、知恩院塔頭・先求院の坊さんである奥向憲が脅迫容疑で逮捕された。お寺の跡目相続を巡るトラブルが原因で次期住職に内定している71歳の僧侶を脅したのだった。
奥容疑者は9月23日、次期住職の名前と「死殺殺殺」「みなごろし」と書いた紙6枚を境内の掲示板や庫裏などに貼り出した。
先代の住職は奥容疑者の父親だったのだが、この8月に亡くなり、遺言状で今回脅された僧侶を次期住職に指名していた。
遺言で指名された僧侶は親戚なのだが、父親が死んだら当然自分が後継者と思っていた奥容疑者はこれが不満で2人の関係が悪化。このたびの脅迫事件となった。
奥容疑者は犯行を認めている。
まあ、お父さんが遺言状で息子を後継者からはずしたのは、こういう奴だと分かっていたからだろう。それに次期住職に指名された人も71歳である。奥容疑者は51歳。どう考えても奥容疑者のほうが長生きするのに決まっている。だから遺言は「僧侶としてもう少ししっかりと研鑽してくれ」という親心だったのだろう。親の心子知らずである。しかしこれが坊さんの世界の話なのだからお笑いだ。
ここで、奥容疑者は「住職である父親が死んだら自分が寺を継ぐのが当たり前だ」と思い何の疑問も持っていない。そして住職だったお父さんも「息子が跡を継ぐ」のが当たり前だと思っていたからこそ、それを防ぐためにわざわざ遺言状を作って息子以外の僧侶を後継者に指名したわけである。
やはり現代でも家というものは「親から子へ」と受け継がれていくものというイメージが定着している。
今回のお寺の一件は、「寺=家の後継者は自分」と思う息子と、「こいつに継がせたら『寺=家』が危ない」と思ったお父さんが「寺=家」を守るために別人を後継者に指名する遺言状を作ったということ。しかも指名した相手はすでに71歳で、「その次」を息子に持っていく道も残している。この辺りのお父さんの配慮を理解できなかった息子はそれでアウトということになる。
この一件、昔ならお父さんは遺言状など作る必要になかった。ではどうしたのかというと、「勘当」という制度があったのである。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・307】