家尊人卑(その31)
~徳川家と天皇家のかかわり~
前回からの続きだが、権力でも財力でも軍事力でも遙かに皇室を凌駕している徳川家がなぜ天皇陛下から将軍に任命してもらわなければならないのか。
江戸時代の学問の主流であった儒教の考え方からすれば、従来の王朝が徳を失い仁政安民を達成できなくなると天命が改まり新王朝が誕生することになる。
そして実際、その考え方をしていた儒学者がたくさんいた。「徳川幕府は天命を受けた新王朝である」と解釈し、室町中期から戦国末期までの日本の歴史を(儒教の)易姓革命による王朝の交替期としたわけである。
誰も「万世一系」とは言ってないようだな。
ただ、それが儒学の「正しい考え」だとすると、徳川家が天皇陛下から将軍に任命してもらっているのは「おかしい」ことになる。天皇陛下はもう「王朝」の人ではないのだから。
この矛盾をどうするのか。
江戸時代のこの「ねじれ現象」を解消するには、幕府が皇室と縁を切るか、皇室が政権を奪回するか、どちらかしかない。
前者を主張していたのが新井白石と荻生徂徠で、後者を主張していたのが竹内式部や山県大弐だった。
前回書いたように、白石と徂徠の意見は幕府の受け入れるところとはならず、一方で竹内や山県の主張は「変人のたわむれ」でしかなかった。もっとも、ペリーが黒船でやって来てからはこの「変人のたわむれ」が現実味を帯びていったわけだが。
さて、大権力者である徳川家の当主が泡沫大名並み(約1万石)で、儒教的に言えば「すでに徳を失っている」天皇陛下から将軍に任命してもらうという珍奇な制度をどう取り繕ったのか。
徳川幕府は新興とはいえすでに100年も君臨している(いわば)大財閥である。それに対して皇室は歴史と伝統があるとはいえ幕府の傘下に入っている弱小企業に過ぎない。
大財閥のリーダーが傘下の泡沫会社の社長から辞令を貰わなければならないわけだ。
多くの儒学者、今風に言えば多くの有識者や学識経験者がこぞって「それはおかしい」と言っていたのに、幕府はなんとも思ってなかった。
そこで徳川という「大きな家」が皇室という「小さな家」に下げる必要のない頭を下げる理由が必要になってきたわけである。
そこでどんな理屈をつけたのか。
絶対的権力者の徳川家が何の力も無い皇室に臣従している。
この擬制をどういう理屈で正当化したのか。
ひとつは「各分論」だった。
つまり君臣の別は変わらないというもの。
平安時代は公家が「君」で武家が「臣」だったが、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」で、たとえ「主君」が「君」としての資格を失ったとしても、臣下は忠誠を尽くさなければならない、という考えである。
まあ、「昔お世話になった人には、立場が逆になっても丁寧に挨拶しなければなりません」というところか。
これだと統治者たる徳川将軍が無力な天皇陛下に対して臣下の礼をとるのは矛盾ではなく、むしろそこに徳川の倫理的優越性が示されることになる。
特に、この考え方だと、「だから徳川の臣下も同じように(徳川に)忠義を尽くせ」と言えるので便利なのだな。
もうひとつは「委任論」である。
要するに徳川家は天皇陛下から政権を委任されているのだとする。
本当は天皇陛下が政権を担当すべきなのであるが、今の皇室は弱小でとてもその任には当れないので、「徳川さん、お願いします」と権限を委任しているのだと。
どっちにしても上手く理屈をつけたものだが、両方とも儒教の政治理念である易姓革命を退けてしまっている。
しかし、これで擬制に整合性がついたのはいいのだが、どちらの考え方も「天皇陛下が真の君主」ということになるので、矛盾を解消するための方便であるはずのものが、何かの拍子に反転すればそのまま幕府の正当性を脅かす危険性をはらんでいた。
その危険性が幕末には現実のものとなったわけである。
奈良時代から続く「皇室」という「家」は弱小化しても「得体の知れない何か」を保持していたようた。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・306】