家尊人卑(その30)
~「天皇制」という制度はないのではないか~
日本の社会は「男尊女卑」ではなく「家尊人卑」だったという話を続けてここまで来た。
「家の制度」なんていうものをちゃんと制度設計して作った人などいないのに、「それ」は確かにあるように見える。
よく「家の財産」と言われる。「個人の財産」ではないわけである。
こうなると「私有財産制」ではなく「家有財産性」であるな。共産主義に近くなってしまう。「誰のものでもない。全ては人民のものだ」みたいな感じで「誰のものでもない。全ては家のものだ」なのだ。
日本は男尊女卑異の社会ではなかった、ということを論じた中で書いたが、商家の場合「家」とは今の「会社」と同じだから「会社を私物化しない」という感覚で「家の制度」は理解可能である。
では武家ではどうか。
福岡藩主の黒田長政は「遺言」の中で、「福岡藩を自分のものと考えず、先祖の領国を預かっているのだと考えろ」と言い残している。
米澤藩主の上杉治憲も「伝国の詞」の中で、「国は先祖より子孫に伝えるものであって、私物化するものではない」と嗣子に言い聞かせている。
領国はご先祖様からの預かりもの。
これを私物化して損なうような事は「ご先祖様に申し訳がない」のだ。
豊臣家にはまだ「ご先祖様」が存在していなかった。
この継続性の欠如はどうしょうもないようである。
「家尊人卑」を考えるとなると江戸時代で一番「大きい」「家」は徳川家だろうか。まあ、皇室という考え方もあるのだが、「徳川300万石」に対して皇室は1万石だったから比べる方がどうかしていると言える。
しかし、その300万石の徳川が1万石の天皇陛下から将軍に任命してもらっていたわけなのだ。
江戸時代でも「これはおかしい」と考える人たちがいた。
山鹿素行は『武家事記』の中で、平安時代は「王朝」であったが、室町幕府以降の政権は「武朝」であるとしている。
つまり王朝が変わった、ありていに言えば革命があった(?)と考えている。
テレビの人気シリーズは終ってしまった「水戸黄門」でお馴染みの徳川光圀は『大日本史』を編纂しているが、南北朝時代の歴史に関して北朝ではなく、南朝を正当としている。そして「南朝の滅亡と共にひとつの王朝の歴史が終った」と解釈しているのである。
国粋主義者の光圀さんだが、「万世一系」とは思っていないようであるな。
新井白石は『読史余論』で、「北朝以後の朝廷は新王朝である武家政権によって設立された付属機関に過ぎない」とした。
奈良時代から連綿と続く「家」であるはずの皇室を何とかして風下に置こうとしている。
新井白石や荻生徂徠は「幕府が朝廷の権威に依存するのをやめ、新王朝に相応しい独自の正当性と栄誉の体系を構築せよ」と主張した。
戦国時代でも大名たちは権力も財力もない皇室から位や名前を貰って喜んでいたが、江戸時代も中期に入って、ようやく独立独歩を目指す意見が出てきたわけである。
しかし、これは鎌倉幕府以来の武家政権の伝統を覆す意見なのだ。
もちろん、幕府はこれを退けた。その理由は、「差し迫った問題もないのにそんな変革をする必要性がない」というもの。
ただ、ひとつだけ明らかになるのは、新井白石も荻生徂徠も「天皇制」などという制度があるとは思っていなかったということではないだろうか。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・305】