家尊人卑(その17)
~「女武芸者」は実在した~
さて、今回は武家の女性がちゃんと武道をしていたという話に移る。こんなことは時代劇の中だけではないのかと思いがちだが、実在したのだ。
北辰一刀流・千葉周作の弟である定吉の三人娘が女武芸者として有名である。司馬遼太郎の『竜馬が行く』に出てきたのではなかったか。
特に長女左那は「鬼小町」と異名を持つ遣い手だったと伝えられ、他の道場では女性が皆伝を受けても伝書に名前を載せない中、定吉の道場が発行する伝書では定吉の娘の名前が記されている。
さて、皆伝を受けても女性は伝書に名前が載らなかったのだから男尊女卑だと言う人がいるかもしれない。
しかし実力があれば皆伝は授けなければならなかったのだから差別はない。伝書に名前を載せなかったのは男尊女卑ではなく、単なる男のエゴではないだろうか。
また、儒学思想に「男女七歳にして席を同じくせず」があり、この点から非難の的になるのだとも言われる。例え道場主が許可を与えても、美しく強い女性が道場で稽古を行えば、他の男性の門人が気になって稽古に集中できず、彼女目当ての入門者が増え、道場としては迷惑になるだけだという人もいる。
これも「?」だ。
道場だって商売なのだから入門者は多い方がいいのに決まってる。美人剣士目当ての者がたくさん来たって差し支えないだろう。
明治時代の直心影流の武芸者に佐竹茂雄と園部秀雄という人がいるが、2人とも女性である。女武芸者には男性と区別できない名前を名乗る習慣があったのかもしれない。そう考えると男性の名前しか記載されていない江戸時代の伝書でも実は女性が含まれている可能性がある。
これは今後研究の余地があるな。
さて、いよいよ実在した女武芸者の話に入ろう。
佐々木留伊という人がいた。武芸百般に通じ、自分の道場を開いて「武道諸芸指南所 女師匠佐々木氏」の看板を揚げていたという。
女性でも道場主になれたのだ。
これが男尊女卑ですか。
留伊さんは武家娘風の髷を結い、小袖装束に家紋のついた黒縮緬の上着を羽織り、黄金造りの細見の大小を差し、素足に絹緒の草履をはいて颯爽と歩いていたという。
道場はこの美人を目当てに入門する人が殺到したとか。
どこが男尊女卑やねん。
ちなみに、池波正太郎の『剣客商売』に出てくる佐々木三冬はこの留伊さんがモデルなのだそうである。
江戸市中に横行していた旗本奴による無頼行為が留伊さんに及んだことがあり、旗本「白柄組」と渡り合ったという話が残っている。
ある時、北町奉行・石谷左近将監に呼び出され、武家の娘であれば違法ではないが「異装・異風」はいかがなものかと問われたが、留伊さんは「自分の目的は土井利勝の家臣であった父の意志を継ぎ、武勇の士を夫に持ちたいためであって、旗本奴・町奴のように狼藉を企てているわけではない」と堂々と申し述べ、認められた。
この話は大老であった土井利勝の耳にも届いたとされ、利勝家臣の小杉重左衛門の次男、小杉九十九を婿に迎え、佐々木家は再興した。
何にしても、留伊さんの目的は自分より優れた武芸者を夫にして父の代で絶えた家を再興したかったから。
日本一の女武芸者の目的は「婚活」だった!!
そしてその目的はお家再興。
そう。男尊女卑ではない。「家」が大事なのだ。
「家尊人卑」なのである。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・292】