家尊人卑(その16)
~戦国女性のユニフォーム~
江戸時代以前は男尊女卑ではなかった(我々のイメージにある男尊女卑は明治以降のことである)というのを証明するために、しつこいぐらい武士の正室について書いて来ている。ひょっとしたら「もう飽きた」と言う方もおられるだろうが、しつこく続ける。
今日は前田利家の家臣である奥村永福の奥さん、安(つね)の方である。。
永福さんは能登半島の付け根にある末森城を預かっていた。天正12年(1584)4月、羽柴秀吉と徳川家康が小牧・長久手の戦いを起こしたとき、佐々成政が前田家を攻めて秀吉の背後を衝こうと策し、1万5千の兵で末森城を攻めたのである。城の兵は僅か300。
連日の攻撃を受け、永福さんはもはやこれまで、と覚悟を決めた。
その時、(はい、もうお分かりですね)
永福さんの奥さんが白襷に白鉢巻、刀を差して手には長刀を持って現れたのである。そして叫んだ。
「昔、楠木正成は日本中を敵に廻して籠城したとか。いずれ金沢より援軍もありましょう。もうしばらくの辛抱。敵を防ぎたまえ」
と、へたりそうになった旦那さんを叱咤激励したのであった。そしてお粥やお酒を兵士に配り始めた。
三の丸が破られ、二の丸が落ちても安の方はひるまず、赤飯を炊いて兵士を激励したのだった。
そこへようやく援軍3500が到着して敵を撃退したのである。
安の方の名前は大いに上がったという。
これが男尊女卑ですか?
一説によると安の方というのは大人しい人だったとか。そんな人が長刀を持って現れたのでその落差振りを強調したいため、このような話になったのかもしれない。
しかし、今まで見てきたように鉢巻、長刀というのは共通のスタイルと言ってもいいので、これは武家の正室が戦時に自軍の兵を激励する時の「制服」のようなものだろう。これが正室の役割だった。
これはよく言われる「内助の功」ではなく、正室の「お仕事」だった。戦時における正室の役割として社会的に認知されていた。
こう考える方が妥当だと思う。
さて、ここまでは武家の奥さん、正室を取り上げて来たが、これからは武家の普通の女性を見ていく。まあ、何が「普通」かは微妙なところだが。
戦になったとき武家の正室は鉢巻を締めて長刀を持ち味方を叱咤激励した。その姿が様になるには長刀の訓練を受けていなければならない。つまり女性でも武道を習う必要があった。これだけでも男尊女卑とは言えない。
では長刀以外の武道は何をやったかというと、剣道もやっていた。刀(いわゆる大小)を腰に差した女性たちもいたのである。
徳川家の大奥や各大名の奥向きの女中には「女別式」と呼ばれる女性がいた。これが「二本差し」の女性である。下げ髪に麻裃を着て帯刀していたという。
もっとも、いわゆる「奥」は男子禁制だから、不測の事態が起きた時すぐには男手がない。そのため武術に優れた女性を「ガードマン」てはなく「ガードウーマン」として常駐させる必要があったのだろう。。。おっと、今ではガードパースンと言わないと叱られるのかな?
女性でも武道をしたのだから、男尊女卑とは言えないのではないかな。
と、いうことで、次回からは武家の正室ではなく、武家の普通(?)の女性について検証していくことにする。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・291】