女帝(女性の天皇)と皇位継承の話(前編)
~奈良時代の天皇は男女が交互に即位していた~
最近ニュースでは天皇陛下の譲位の話が出たりしているが、それとは別に女帝の話をひとつ。
この話、だいぶ前にフェイスブックには書いたのだが、自分的には面白いと思うので、今の機会に蒸し返すことにする。
「歴代の女帝は例外的な即位」だったというのが教科書的な見解である。過去に10代8人の女帝がる。この数字を見て分かるように、天皇の位に2回ついた女性が2人いるわけだ。これもまた凄い話。そこで、女帝は何時いたのかを調べると、江戸時代に2人(明正天皇と後桜町天皇)で残りは全て飛鳥時代と奈良時代。で、すみませんがここでは便宜上、推古天皇以後の飛鳥時代も含めての202年間を「奈良時代」として括ってしまうので、ご了承下さい。
「女帝が例外的」であったとすれば、その人たちが鎌倉時代や室町時代にも分散して存在していたのなら「例外的」で問題ないのですが、奈良時代に集中しているとなると、頭の中に「?」の文字が点灯する。
奈良時代の天皇は、2回の重祚(ちょうそ)を除いて15人。そのうち6人が女帝である。約半分。これが「例外的」と言えるか。そこで顔ぶれを順番に見てみよう。第33代から49代までである。
- 推古(女)
- 舒明(男)
- 皇極(女)
- 孝徳(男)
- 斉明(女)(皇極重祚)
- 天智(男)
- 弘文(男)
- 天武(男)
- 持統(女)
- 文武(男)
- 元明(女)
- 元正(女)
- 聖武(男)
- 孝謙(女)
- 淳仁(男)
- 称徳(女)(孝謙重祚)
- 光仁(男)
さて、天智天皇から男が3人続いているが、弘文天皇は「即位していなかった」という見解もあったし、何よりもこの時は壬申の乱による混乱の末に次の天皇が決まっているから正規の原則から外れていると見做すことができる。つまり弘文天皇と天武天皇は「例外」なのである。次に、女が二人続いている元明天皇と元正天皇だが、元正天皇こそ「例外的に即位した」天皇である。そこでこのリストから2回の「例外」を取り除くとどうなるか。本来の即位の原則が見えてくる。
- 推古(女)
- 舒明(男)
- 皇極(女)
- 孝徳(男)
- 斉明(女)(皇極重祚)
- 天智(男)
- 持統(女)
- 文武(男)
- 元明(女)
- 聖武(男)
- 孝謙(女)
- 淳仁(男)
- 称徳(女)(孝謙重祚)
- 光仁(男)
一目瞭然だろう。
奈良時代の天皇は男女が交互に即位するのが原則だったのである。
万世一系は男系の男子によって維持されるものという原則は奈良時代には当てはまらない。200年に渡って皇位継承については男女が交互に即位するという「伝統」があったのですよ。ひとつの原則が200年も続いていたという事実を無視してよいわけがない。
こうなると2回の例外の実情が気になる。
奈良時代(飛鳥時代も含める)の天皇は男女が交互に即位していたことは今書いたとおりだが、それではその中での2つの「例外」について話を進める。しかしその前に、これまた異例である「重祚(ちょうそ)」について触れておきたい。
重祚とは一度天皇の位について退位した人がもう一度即位することである。奈良時代に2例を認めるのみで他の時代には一度もない。そしてこの2例とも重祚したのは女性であるというのが、何か象徴的なような気がするのであります。ジェンダーフリーどころか女性上位みたいで。。。
最初の重祚は第35代皇極天皇が重祚して第37代斉明天皇になった例。
皇極天皇の時代にいわゆる大化の改新、正確には乙巳(いっし)の変、が起きた。教科書なんかでは中大兄皇子と藤原鎌足が「悪者」の蘇我入鹿を殺して正義が行われたようになっている。まあ、大体歴史というものは勝ったほうが正義になるのだが。。。で、これで中大兄皇子が天智天皇になったような気がするのだが、実はこの後で即位したのは孝徳天皇だった。そして孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子にした。藤原鎌足が中大兄皇子に助言して即位を譲ることになったようである。何故か? 自分たちの手を汚して権力を奪取したのに何故に即位を遠慮したのか。
人殺しをして即位しても、その後に別の皇子が同じように、今度は中大兄皇子を殺して政権を取ろうとするかもしれない。これは避けたい。そこで間にワンクッション置こう、という判断だったのではないか。とりあえずナンバーツーの座について、ほとぼりが冷めてからトップを狙うと。
孝徳天皇は大化元年(645)に都を難波長柄豊崎(なにわのながらのとよさき)に移したが、白雉4年に中大兄皇子は大和への遷都を提案した。しかしこれは孝徳天皇には聞き入れらなかった。にもかかわらず、中大兄皇子は皇后、皇子らを伴って飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に移り、公卿、百官もついていってしまった。要するに、天皇陛下を置き去りにして勝手に遷都してしまったのですね。この年に孝徳天皇は亡くなる。
それで中大兄皇子が即位したのかというと、さにあらず。退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)と名乗っていた皇極天皇が重祚して斉明天皇になった。本当は中大兄皇子が即位したかったと思う。しかし「男女が交互に即位する」という原則には逆らえなかったのではないだろうか。
これが1度目の重祚である。「原則を守る」という必然性からこの異例の措置になったと思うのだが、如何でしょうか。
さて、史上2回目にして最後の重祚は第46代孝謙天皇が重祚して第48代称徳天皇になったとき。
孝謙天皇は聖武天皇の第1皇女だが、立太子した皇子が夭折したため藤原氏によって皇太子に立てられた。わが国初の女性皇太子である。
皇子の夭折がなければ男女交互即位の原則はここで破られていたかもしれないし、あるいは原則を盾に取った内紛が起きたかもしれない。何はともあれ、藤原氏が皇女を皇太子に立てたのは他の皇族が皇位目当てに台頭してくるのを抑えたかったから。次の天皇は順番どおり女性ということを示すことによって皇位簒奪の野心をくじいたわけである。
さて、孝謙天皇は9年間の在位の後に譲位して淳仁天皇が即位した。この後、孝謙上皇は弓削道鏡と「親密な関係」になる。そしてそれを咎めた淳仁天皇を恫喝して「国家の大事は自分が見る」と宣言。阿部仲麻呂を捕らえて殺し、淳仁天皇も淡路に流されてしまった。
この後、孝謙天皇が重祚して称徳天皇になったわけだが、ここから有名な宇佐八幡神託事件へと進む。
称徳天皇は愛人の道鏡を天皇にしたかったわけだが、それなら淳仁天皇と阿部仲麻呂を死に追いやった勢いで道鏡を即位させても良かったはずである。それをしなかった、あるいは出来なかったのは「男女交互即位」の原則に縛られたからではないのか。淳仁天皇の後すぐに道鏡が即位すれば「不規則」になり、それを理由に反対勢力が中間派を抱き込んで対抗してくるかもしれない。これを避けるためには自らが重祚して原則を守る必要があった。だからこの後の称徳天皇は道鏡の即位に積極的になる。もっとも、その希望も和気清麻呂によって打ち砕かれたわけなのだが。
かくして、2回目の重祚も「男女交互即位」の原則を守るためという結論が出たのである。
と、いうことで、来週はいよいよ男女交互即位の原則が破られた2回の「例外」について考察する。
【言っておきたい古都がある・211】